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Achilles Last Stand (Side A) 有馬菜々は歩いていた。 どこを? 瓦礫だらけの武蔵野を。 数発の核弾頭が、日本を荒野に変えた。 日本以外の国がどうなっているかは、菜々にはわからない。 生き残った日本人のほとんどが知らないはずだ。 テレビもインターネットも瓦礫の下。携帯電話も通じやしない。国外の情報はおろか、東京二十三区の情報すらも入らない。 なにかを得たければ、自分の足で稼ぐしかない。 生存が確認されているリリアン生徒は、たった数十人だ。 東京に核弾頭が落ちた時間帯は放課後だった。 帰宅部の生徒は、帰宅途中に死んだのか。 校舎にいた生徒は、瓦礫の下敷きになって死んだ。 生徒会のメンバーも同様らしい。 剣道部の菜々は、瓦礫がうまく折り重なってくれたおかげで、エアポケットが作られ、難を逃れることができた。 姉(グラン・スール)の由乃さまもしばらくは生き残れたが、彼女の弱った体は放射能に耐えきれず、死んでしまった。 これでも幸運な方だったらしい。リリアンは、崩壊したとはいえ、まだ校舎の面影をかろうじて保っていた。 リリアンの周辺には、細かい瓦礫が転がっているだけだ。過去の姿を知らなければ、そこに建造物があったなどとは、誰も想像できないだろう。 マリア様の加護と考えるべきだろうか? 生存者たちは、リリアン跡に身を寄せ合った。 数人がかりで持ち上げられる程度の瓦礫をストーンヘンジのように組み合わせ、ビニールシートをかぶし、雨風をよけた。 食べ物は、駅前のスーパーから獲得した缶詰や、これまた幸運にも生き残れた野犬、どうしようもなくなれば『ウミガメのスープ』だ。 しかし、リリアン周辺にある食料は無限ではない。 ひとり、またひとりと、リリアンを離れる者が現れた。 菜々もまた、リリアンを離れて、もう数ヶ月になる。 菜々は西を目指した。 最初のうちは、瓦礫の上を歩くのは骨が折れた。 歩いて歩いて、一日中歩いたつもりでも、振り返ればリリアンの校舎(の残骸)が見える、なんてこともあった。 自分の意図通りに進むには、瓦礫の中に道を見つけなければならないのだ。 護身用に持ち出した竹刀は、すぐに杖の代用品になった。 靴屋を通りかかった時、ローファーは脱ぎ捨て、スニーカーに変えた。サイズは合わなかったけれど、まめが何度か潰れるうちに足の方からなじんでくれた。 黄色いラインの入ったスニーカー。 黄色は菜々と、由乃さまの色だった。 メーカーはナイキ。昔から愛用していた。なんたって名前がいい。NIKEはニケ、勝利を約束するギリシアの女神だ。 リリアンの西には、小金井公園がある。 中央線にして二駅分の距離しかないはずなのに、到達までに二日を要した。 花と緑のあふれていた小金井公園には、草一本生えていなかった。 大きな、背の高い枯れ木がそびえ立っている。 かつては、休日になると、あの木の下で、家族たちがピクニックをしたのだ。 枯れ木の下には、丈夫そうなテントがあった。 色あせた文字で、「小金井町内会」と書いてある。お祭りなどの町内行事の際、本部として組み立てられるテントだ。 穴をなくすためか、ジーンズなどの生地が、パッチワークのように縫い合わされていた。 テントには明かりがついていた。 空が厚い雲に覆われているため、昼でも照明が必要になる。 誰かいるんだ。 菜々は期待に胸をふくらませ、近づいた。 中から出てきたのは、大柄な男だった。 髪はぼさぼさ、ヒゲはもじゃもじゃ。『バットマン』のTシャツを着ているが、サイズがひとまわり合わないらしく、鍛え上げられた腹筋が露出していた。 薄汚い格好なのは自分も同じだ。リリアン生徒以外の人間と会えるのが、ただうれしかった。 その感動も、すぐに消え失せた。 男の目には、知性の光がなかった。 口の端から、よだれを垂らしている。 剥き出しの狂気が、目の前にあった。 菜々はこれまで、人間の悪意に、直接にさらされたことがなかった。 同じ人間なら話し合えるものと思っていた。 違った。 目の前の『それ』は、人間の姿形をしているだけだ。中身は、襲いかかってきた野犬たちと同じ獣だ。 距離は二十メートル。 躊躇するには長く、考えるには短い。 手には竹刀がある。 野犬と較べれば、人間は瞬発力に劣る。 しかし、小回りが利く。 突進を横にかわし、叩けばよいというものではない。 公園には瓦礫もない。 瓦礫を利用して逃げることはできない。 木刀なら頭をかち割れた。 手には、竹刀しかない。 あの男は、どんな職業だったのか、屈強な体つきをしている。 自分を捕まえ、引き裂くつもりだ。 あいつは何者なのか。 あいつに家族はいるのか。 違う! そんなことを考えるな。 相手が何者かなど考えるな。 目の前の人間は、敵だ。 打ち倒すべき相手だ。 これは誰の言葉だ? 男はまっすぐ突っ込んでくる。 二十メートルはすぐに十五メートルになり、十メートルになるだろう。 どうすればいい。 ──突け! 頭の中で、電光のように、声が閃いた。 誰の声だ? マリア様か? 五メートル。 めくれ上がった唇から、よだれが垂れている。 ──突け! 杖代わりの竹刀を、正眼に構える。 突いた。 ぐぼ。 「ひゅ……」 男の動きが止まった。 喉に、竹刀の先端がめり込んでいた。 菜々は竹刀をねじり、さらに押し込んだ。 男が倒れようとしているのに、押し込むのをやめない。 男は、どう、と倒れる。 竹刀を逆手に持ち替え、押し込んだ。 押し込んだ。 押し込んだ……。 口から泡を吹き出して、ようやく菜々は竹刀を抜いた。 菜々はテントの入口をめくった。 何人もの少女が、折り重なって倒れていた。 皆、リリアンの制服を着ている。 知った顔もある。 つい数日前に出ていったばかりの生徒もいた。 下着が脱がされ、穢されていた。 幸か不幸か、皆、死んでいる。 テントの四隅は、風対策のためか、大きな石で押さえられていた。 菜々は石をひとつ持ち上げると、昏倒している男のところへ戻っていった。 顔の上で、手を離す。 ぐしゃり。 男は、痙攣をやめた。 それから菜々は、ウミガメのスープを食べた。 この件以来、菜々は、考えを改めた。 この世界は、善意でできているわけじゃない。 瓦礫が砂糖とはちみつからできていないのと同じだ。 菜々はリリアンに戻ると、武器になるものを探した。 まずはナイフだ。 彫刻刀が見つかった。 いつでも抜けるように、鞘に収め、スカートの後ろに差しておく しかし、これだけでは不十分だ。 武器は長ければ長いほどいい。 武器の進化を見ればわかる。 斧より剣。 剣より槍。 槍より弓。 銃。 ミサイル。 大陸間弾道弾……。 だが、弓矢ではいけない。 弾薬がなければ機能しない武器には汎用性がない。 最も作るのが簡単で、最も汎用性に富み、最も複数種の傷を残せる武器こそが最強だ。 『薔薇の館』の瓦礫を掘り起こすと、水道管の残骸が見つかった。 その中から、ちょうどいい長さのものを選ぶ。 おあつらえ向きに、先端が切断され、ねじれている。 拳大の瓦礫で、その先端を研ぐと、即席の槍が完成する。 誰かを殴りつけることもできるし、不格好な先端で、刺すことも切り裂くこともできる。 パイプを研いでいる間、リリアンに残っていた生徒のひとりが、菜々に言った。 「菜々さん、顔つきが変わった」 「そうかな」 「見たことある。竹刀を握っている時の、令さまの顔だ」 そうか。 言われて、菜々は気づいた。 あの狂人と対峙している時の『声』は、令さまのものだったんだ、と。 剣を握った令さまは、まるで別人だった。 一度ならず稽古をつけてもらったことがあるが、まるで勝てる気がしなかった。 相手を倒す、という一点に、全神経がそそがれていた。 菜々は、剣士のはしくれとして、令のようになりたいと考えたものだった。 令さまが卒業してからも、菜々は、ずっとシミュレートし続けた。 令さまなら、どう打つか。 令さまなら、どうかわすか。 そうした、日頃の思考のシミュレートが、あの男と向き合った時に、『声』として表れたのだ。 菜々は、再び西を目指した。 歩く。 黙々と歩く。 東京は爆心地だった。 東よりは西がいいに違いない。 だけど、と菜々は考える。 なんのために歩く? 食料を探すため? ごろごろ転がっている瓦礫に足を取られそうになれば、急いで鉄パイプを地面に突き、バランスを取って、また歩く。 これ以上、この世界で生き延びてどうする? 姉(グラン・スール)は、もういないというのに。 山賊のような連中も現れた。 山賊たちは、放浪者の肉体を目当てにしていた。 『肉体』といっても、輪姦するだとか、奴隷にするだとか、そういった目的ではない。 彼らが一番に欲しいのはウミガメのスープだからだ。 奴隷にすれば肉付きが落ちるし、肉付きを維持するのはコストが高い。 輪姦は体力を消耗する。 極限状態においては、「個体の維持」以外の無駄が省かれるのだ。 菜々を取り囲んだ山賊たちは、全員が飢えた獣の目をしていた。 そのすべてで菜々は生き残ってきた。 いくら屈強な男が相手でも、武術の心得さえなければ、剣道の突きの前には無力だということは、小金井公園の狂人から学んでいた。 ひとりで複数人を一度に相手取れるのは、よほどの達人だけであるし、達人になればなるほど、そうした危険を避けるものである。 複数人を片づけるには、一対一の状況を作り出し、着実に数を減らすことが重要である。 環境も、菜々の味方だった。 瓦礫の上を逃げるなら、身軽な女の方が有利だった。ただ逃げまくれば、追ってくる人間の数が減っていく。追っ手の数がひとりになったところで相手すればいい。 崩れかけた建物が近くにあれば、状況をより容易に作れる。 菜々にとって幸運だったのは、襲ってくる人間たちが、複数人といっても、多くて四人程度だったことだ。 個体の保存が目的である以上、徒党はすぐに崩壊するのだろう。 ピンチになれば、頭の中で『声』が閃いた。 令さまの声だ。 『声』は、どうすればいいかを教えてくれた。 受ければいいのか。 かわせばいいのか。 「リラックスするんだ。込める力は、必要なだけでいい。竹刀は、緩く、しっかり持ちなさい」 そう言われたのは、高等部の剣道部に入部してから、二ヶ月くらい経った日のことだった。 その日は、大学に行った令さまが、剣道部に遊びに来たのだ。 菜々は筋がよかった。 本稽古の時は、まったく才能のないお姉さまはともかく、上級生相手にも勝てたし、部長からだって、三本に一本は取ることができた。 子供の頃から、姉たちに混じって、竹刀を持っていたからだろう。一種の英才教育を受けていたのだ。 しかし、令さまから一本を取ることだけはできなかった。 その日もそうだった。 「菜々ちゃん。あなたは、戦う前から負けている」 令さまと向かい合うと、菜々は緊張してしまい、必要以上の力が入ってしまう。 竹刀を固く握ると、打ち込みのスピードが削がれる。スピードが削がれれば、先に打たれてしまう。 戦う前から負けているというのは、そういうことだった。 相手に呑まれている。 だから令さまは、リラックスしろ、と言った。 これは命のやりとりではない、スポーツだ、と言い聞かせろ、と。 負けても次がある、と。 リラックスなど、できなかった。 令さまが、本当に強かったからだ。 隙がなかった。 彼女の弱点といえば、由乃さまくらいのものだ。 試合中だろうとなんだろうと、隣で由乃さまが打たれただけで、ほんの一瞬だけとはいえ、気を取られる。 それでも菜々は、勝てなかった。 汚水をすする。 ネズミの肉を喰らう。 歩く。 生きるということは、誰かを、なにかを殺すことだ。 動植物の命を奪わなければ、生きていけない。 単純な事実だが、死が隠蔽された『文明社会』が滅びて初めて、菜々はその『事実』を知ることができたのだ。 ならば、と、菜々は思う。 核が落ちて、誰かが救われたのだろうか。 仮に百万人死んだのだとしたら、百万人の命が救われたのだろうか。 歩く。 歩く。 歩く。 三ヶ月歩き、やっと、人間らしい人間と出会った。 自分の食料を分け与えてくれた老婦人もいた。 核が落ちる前から残っている雑貨屋を、ひとりでずっと守っていた。 老婦人は店頭に椅子を出して、にこにこ座っていた。 菜々が訪れると、崩れかけた奥から、缶詰の入った段ボールを持ってきた。 「私は、直に死んでしまうから。この店と同じ。いつかは崩れてしまう」 「そんな。もっと長生きしてください」 「いいのよ。そのうち、山賊に襲われてしまうわ」 老婦人は、つい最近まで、息子夫婦に守られていた。 その息子夫婦は、姿を消してしまった。 殺されたか、老婦人の保護を放棄したか。 「私が守ります」 言いながら、菜々は、由乃さまのことを思い出していた。 老婦人は静かに首を振った。 「私なんかよりも、あなたには、守るべき人がいるはずよ。その服、リリアンの制服でしょう」 菜々は驚いた。 制服は、切り裂かれ、ほこりと垢にまみれ、もはや原型を留めていない。 なのに老婦人は、リリアンの制服と言い当てたのだ。 「ご存じなのですか」 「ええ、私もリリアンの卒業生なのよ。あなたには、姉妹(スール)がいて?」 「姉(グラン・スール)が。死にました」 「妹(プティ・スール)を作るのよ」 「姉妹ごっこなんて……もう、いやです」 「『ごっこ』じゃないわ。支え合って生きていくための術よ」 「それが、もう、いやなんです。誰かを失うのは、いやなんです」 老婦人は、菜々の目をしっかりと見つめた。 試合中の、令さまの目を思わせた。 「なら、ひとりでお行きなさい。誰も必要としていないのであれば」 違う。 そうじゃないんだ。 菜々が反論しようとした時だ。 なにかが、菜々の耳元をかすめた。 矢だった。 菜々の肩越しに、老婦人の額に突き刺さる。 「か……」 老婦人が倒れると同時に、菜々は店の奥へ転がり込んだ。 商品棚を遮蔽に、外を覗く。 雑貨屋の向かいには、ビルがある。 ビルといっても、二階から上はなくなっている。 「やった! 当たったぜ!」 という歓声が聞こえた。 歓声の主は、ビルの屋上にいた。 左手に弓を持っている。 「ババアなんて殺してもしょうがねえだろ!」 と、別の誰かが言った。 ビルの脇だ。 手に持っているのは、木製の棍棒だ。 棍棒には、釘や鋲などが打ってある。 菜々は頭をフル回転させた。 高性能のコンピューターのように、周囲の状況が、脳内に克明に描写される。 雑貨屋の裏手に建物はない。すべて瓦礫と化している。 正面には敵がふたり。ビルの上に飛び道具、ひとりはビルの横。 相手がふたりなら、どうにかできる。 ビルの上の人間は、そこまで小回りが利かないはずだ。脇のひとりを片づければ、あとはビルを登り、弓を始末すればいい。 相手がふたりなら、の話だ。 ――耳を澄ませ。 内なる声に従う。 がさ。 じゃく。 足音が聞こえる。 さらにふたり。 雑貨屋の裏にいるのだ。 いずれにせよ、裏口は崩れていて使えない。 鉄パイプを握る手が汗ばんでいる。 正面突破しかない? バカな。弓のいい的になるだけではないか。 雑貨屋と、向かいのビルの間は、およそ五メートル。 弓矢使いとっては、目と鼻の先の距離でしかない。 ちらり、と横を見る。 老婦人の頭があった。 額からは、矢が生えている。 カーボン製の矢だ。 木を削り出したものではない。 命中精度も高いはずだ。 ――考えろ。 わかってる! と、『声』を怒鳴りつけたくなる。 逆らってはいけない。 『声』は自分を救ってきたではないか。 「出てこいよ!」 これは、頭の中の声ではなかった。 男の声だ。 弓使いの声か、棍棒の声か。 いずれにせよ、耳障りな声であることには変わりない。 「出てこいよ、おちびちゃん! 俺たちと『イン・アウト』しようぜ!」 『イン・アウト』だって? 菜々はいぶかしんだ。 その言葉から、三つの意味を読み取れたからだ。 ひとつは、『イン・アウト』という言葉が、『時計じかけのオレンジ』の中でティーンエイジャーが使うスラングだということ。 ひとつは、その言葉が、文字通りの『イン・アウト』――つまり性交を意味すること。 そして、最後のひとつは――これが最も重要なことだが――彼らが性交を望んでいるのだということ。 それだけでも、この山賊が、これまで遭遇した、ただの『獣』でないことがわかる。 恒常的に食欲を満たせる環境にあるのだ。 目の前の連中は、唾棄すべき欲求の持ち主だが、事によれば、なんらかの秩序の下に置かれているのかもしれない。 じゃく。 ざり。 裏手の足音は、回り込むように、徐々に正面へと近づいてきている。 まずい。 どうすればいい? ――使える物を探せ! 菜々は、また『声』に従った。 雑貨屋の中を見まわす。 日用品に加え、子供のおもちゃが多い。 ここの店主である、死んでしまった老婦人の性格がうかがえる。 子供好きの、優しい店主だったのだろう。 一通り見渡した菜々は、個々の商品に着目する。 まず目にとまったのは、プラスチックのケースだ。 大量のパチンコ玉が入っている。 スリングの弾丸だろう。 これなら。 さらに、カウンターに目をやる。 天板が取り外せそうだ。 レジを押しやり、持ち上げる。 落ちたレジが、カウンターの向こうで、がしゃんと派手な音を立てた。 「なにやってるんだ、おちびちゃん! 早く出てこいよ!」 菜々は立ち上がると、カウンターを乗り越えた。 左手で、天板を目の前に掲げる。 木製の天板だから、前方は見えないが、頭頂から腹部までを防御できる。 さらに、プラスチックのケースから、パチンコ玉をひとつかみ取り出し、スカートのポケットに入れてから、鉄パイプを取り上げた。 二歩、三歩。 店から姿を現すと同時に、菜々は鉄パイプを思い切り投げた。 ビル脇の棍棒にではなく、前方のビルに向けて。 鉄パイプは壁に当たって、からん、とその場に落ちた。 「ケエエエエエッ」 棍棒男が奇声を上げて走ってくる。 店の両脇に隠れていた男ふたりも同様だ。 ビルの屋上では、矢がつがえられ、放たれた。 矢の先が板を突き抜けるも、菜々の体までは届かない。 菜々は道路の向かいに走り出すと同時に、板を棍棒男に投げつけた。 男が板を払いのける一瞬、死角ができる。 一気に距離を詰め、股間を蹴り上げる。 男は悶絶し、膝をついた。 次いで、菜々はポケットのパチンコ玉をひとつかみ取り出すと、振り向きざまに投げつけた。 パチンコ玉は、散弾のように、店の影から出てきた男の片方に命中する。 もう片方の男もひるんだのを目の端に捕らえながら、菜々はビルへと走った。 矢が放たれてから、菜々がパチンコ玉を投げるまで、およそ三、四秒。 二射目が来る。 菜々は右肩から前転し、ビルの壁にぴったりつくと、先に投げておいた鉄パイプをつかんだ。 鉄パイプを窓から放り込み、自身も窓枠を乗り越える。 どこかの事務所だったのだろうか。窓はとっくの昔に割れていて、ガラスの破片も残っていない。 再び鉄パイプをつかむと、周囲を気にせず、上階への階段を探し当て、二段飛ばしで駆け上がる。 外見通り、二階より上が崩れ去っており、空が見える。 窓のひとつから、弓を持った男が身を乗り出し、外を覗き込んでいた。 老婦人を殺したのは、こいつだ。 菜々は鉄パイプを構えた。 剣道の構えではなく、野球のバッターのそれだった。 走り込み、思い切り腰をスイングする。 「がっ」 鉄パイプが後頭部にめり込む。 男は、体をくの字に折り曲げ、窓から落ちた。 あとのふたりを片づけるのは簡単だった。 狭いビルの中に誘い込めば、武器を振りまわすことはできない。 直線の動きで剣道に勝てるのは、せいぜいフェンシングくらいのものだろう。 喉を突き、ひとり殺す。 残ったひとりは、武器を投げ捨て、みじめに泣きわめいた。 小柄な少女であろうと、目の前で屈強な仲間三人を殺されたのだ。 その時点で、山賊の心は折れていた。 「他に仲間はいる?」 ビル通路の床にひざまずかせ、鉄パイプの先端を突きつける。 よく研がれた切っ先を、男の右の眼球のぎりぎりまでに近づけた。 男は失禁し、より大声で泣きわめいた。 じわり、と小水が床に広がり、菜々のスニーカーを汚す。 「いない……い、いや、いる」 「どっちなの」 「近くにはいない。俺たちは獲物を探すのが目的なんだ。仲間は、西にいる」 「西?」 「そうだ。要塞だ。二十人が住んでいる。あんたのせいで三人減っちまったが」 やはり、と菜々は思った。 この山賊は、徒党を組んでいる。 集団に秩序を与えるのは、いつだって、より強力な指導者だ。 「指導者……リーダーはいるの?」 「アキレス」 「『アキレス』……?」 菜々は思わず聞き返した。 日本には不釣り合いの単語だ。 アキレス、あるいはアキレウス。 伝説と神話とが未分化だったくらいの昔、ギリシアにいたという、不死身の剣士の名だ。 北欧の英雄ジークフリードのように、体のある一部分以外は、斬られても突かれても死ぬことはない。 アキレスの場合、かかとが弱点であった。無敵の戦士であった彼も、卑劣な王子パリスにかかとを射られ、その一生を終えることになる。人体の「アキレス腱」という名称は、アキレスに由来している。 英雄の名を名乗る山賊の首領が不死身なわけはないが、不死に等しいくらいの強さを誇っているということだ。 「あ……あんたも、アキレスほどじゃないが、強ェな」 男は、緊張にどもりながら言った。 「ど……どうだ、俺たちの仲間にならねェか?」 「『仲間に』……?」 思わず、鉄パイプを握りしめた。 その拍子に、切っ先が男の眼球に触れてしまったらしく、男は右目を押さえて泣きわめいた。 菜々はその様子を冷たく見つめた。 人殺しの仲間に? 家族を失った老人を殺し、自分に乱暴しようした連中の仲間に? 知らぬうちに、菜々は、鉄パイプを掲げていた。 天井で割れ残った蛍光灯に、先端が触れ、ちゃり、と音を立てる。 ――待て! 菜々の行動を決めたのは、またも『声』だった。 令さまの声。 そうだ。 殺してはならない。 「仲間になるわ。案内して」 男が落ち着くのを待って、菜々は言った。 仲間になれば――アキレスに会える。 老婦人の、真の仇に。 Side B(『Fall Out Girl』掲載)につづく
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