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Nice Day for a Sulk



 悪魔がささやきかけてくることがある。
 悪魔は、いろんな姿で現れる。
 例えば、どこからか逃げ出してきた首輪つきの犬であることもあれば、テレビに映っているイケメンタレントであることもあるが、たいていは、鏡に映った志摩子自身だ。
 毎朝、化粧机に向かっていると、一ヶ月に一回くらいの割合で出てくる。
「おはよう、志摩子」
 来たか、と志摩子は身構えた。
「そんなにびくつくことないでしょう。私とあなたは、もう長い長いつき合いなのだから」
「つき合いたくてつき合ってるわけじゃないわ」
「ねえ志摩子。なぜ、悪魔がこの世界にいると思う? あなたの大好きな聖書に出てくる、悪魔が」
「主を試すなど、行ってはならないことよ」
「知りたくないとでも? なら、教えてあげる。悪魔がいなければ、神様が存在できないから。そうでしょう? 対立者がいなければ、英雄は存在し得ない。悪魔が苦難を作ってくれなければ、神様は信者を集められない、というわけ」
「違うわ」
 志摩子は首を振った。
「主は、我々人間に自由意志を与えてくだすったのよ。だから、悪魔の存在もお許しになっているの。あなたも、かつては気高き天使だったのでしょう」
「そうよ」
 志摩子の顔をした悪魔は、蠱惑的に笑った。
「私も昔は、天使だった。でも、泥にまみれたの。あなたのために」
「私のため?」
「あなたのため。あなたを救うために」
「私は、主イエスの子。主イエスは、私を救ってくださる。あなたではない」
「ならば、私がキリストよ」
 悪魔は、道化の口裂き顔で笑う。
 口の中は、血を飲んだように真っ赤だった。
 志摩子は堅く目をつむった。
 悪魔の顔は、まぶたの裏にも現れた。

 悪魔を見た日は、必ずお聖堂で、長い長い祈りを捧げることにしている。
 子供の頃、志摩子が、幼稚園でひとり泣いていた時のことだ。
 女の先生がやってくると、あらあらとしゃがみ込み、志摩子と同じ目線で話しかけてきた。
「志摩子ちゃん、どうしたの?」
「怖い人が、鏡の中にいるの」
「そう」
 先生に手を引かれ、志摩子が連れて行かれたのは、近所の教会だった。
 その先生は、熱心なクリスチャンだった。
 真っ白な静謐の空間に、大きな十字架が飾られている。
 十字架の脇では、ゆったりした服をまとった女性が立っている。
 白亜のかんばせに、慈愛の笑みを浮かべていた。
 マリア様だ。
 先生は、マリア様の足下にひざまずいた。
 志摩子も、並んで同じようにする。
「お祈りすれば、怖い人なんていなくなるわ」
「お祈りって、どうやってすればいいか、わかりません」
 志摩子は、顔を真っ赤にして告白した。
 幼い少女は、意味のわからない文句を繰り返し繰り返し唱えることに対し、意味を見出せなかった。
 でも、先生は、決して志摩子をバカにしなかった。
「難しいことじゃないのよ。なにもかも、マリア様に打ち明ければいいの。そうすれば、怖いことなんてなくなるから」
「本当?」
「ええ。いつだって、主イエスと、母なるマリア様が、あなたを見ているから」

 幼稚園の先生の教えの通り、志摩子は早朝のお聖堂に出向くと、十字架の前でひざまずき、手を合わせた。
 右手に巻かれたロザリオが、合わせた手の中に納まる。
「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません』」
 お祈りをすませると、恐怖は消えていた。
 いまでは、聖書の意味もわかる。
 聖書の言葉は、志摩子の生きる指針だった。

 お聖堂を出た時だった。
「シオリ……?」
 聞き慣れた声がした。
 志摩子の姉(グラン・スール)である佐藤聖が、惚けたような顔で立っていた。
「お姉さま」
 返事をすると、聖はかぶりを振った。
 いつもの、いたずらっ子のような表情に戻っている。
「ごきげんよう、志摩子」
「ごきげんよう、お姉さま」
 ふたりは、特に言葉を交わさず、登校する生徒たちに混じって並木道を歩き始めた。
 志摩子は、『シオリ』の意味を尋ねなかった。
 聖も、特に自分からはなにも言おうとしなかった。
 そういう関係だった。
 一緒にいると居心地のいい関係。
 なぜなら、干渉しないから。
 相手の心に踏み込めば、途端に崩壊する世界。
 世界を維持するには、聞かなかったふりをするのが、一番楽だった。
 かさかさと枯れ葉が舞う。
「おっ」
 聖が、うれしそうな声を上げた。
 視線の先には、見覚えのあるツインテールが揺れている。
 聖は、たたっと駆け寄ると、後ろからぎゅっと抱きついた。
「ぎゅあっ」
 車に轢かれたカエルのような悲鳴に、登校中の生徒たちが一斉に振り向く。
 ツインテールの正体は、同級生の福沢祐巳。聖のお気に入りだ。
「せ、聖さまっ」
「ごきげんよ、ゆーみちゃん」
「ご、ごきげんよう……じゃなくて! やめてください!」
 ここ最近の聖の、毎日の日課だ。
 校舎へ向かう生徒たちが、通りすがり際に、くすくすと笑顔を残していく。
 聖は気にもせず、飼い犬にするように、祐巳を抱きしめ、ほおずりする。
「うーん、いい抱き心地。たまらんのー」
「聖さまぁ〜」
 祐巳も、口ではいやがっているが、楽しそうだ。
 志摩子は、ふたりから数歩離れた場所で、立っていた。
 ほほえんで立っていた。

 どこからか、甲高い笑い声が聞こえてきた。

 生徒たちだ。
 通りすがりの生徒たちが、口裂き顔で笑っている。
 彼女たちに、悪魔が取り憑いていた。
 悪魔は、口々に言った。
「どうしたの」
「なぜほほえんでいるの」
「なぜ怒らないの」
「取られちゃうよ」
 彼女たちは、真っ赤に裂けた口を上品に手で隠し、くすくすと笑う。
「あなたは、愛されてないのよ」
「誰にも愛されてない」
「祐巳さんにも」
「お姉さまにも」
「シオリ、シオリ、シオリ」

 ロザリオを握りしめ、つぶやいた。
「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい」
 しゃら、と手の中で、鎖がこすれ合った。
「主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない』」
 聖は、まだ祐巳とじゃれ合っている。
「『主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう』」
 志摩子は、ほほえんで立っていた。


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