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(I Don't Want to Go to) Chelsea



 木張りの床がひんやり冷たい。
 かれこれ一時間も、父と相対した形で正座させられている。
 ふたりとも剣道着だ。
 足はしびれ、体はかじかんでいる。
 でも、由乃はもっと痛かったのだろう。
 幼い令は、じっと耐えた。
「なにを考えていた」
「……は?」
「なにを考えていたのだ」
 普段はおだやかな父が、なんの感情も見せず、淡々と質問してくる。
「その……」
 令は口ごもった。
「令」
「はい」
「なぜ、剣を学ぶ」
「……『なぜ』?」
 令は、思わず聞き返した。
 考えたこともなかったことだ。
 いま、そう訊ねている父こそが、令に剣道を教えた。
 小さいとはいえ、剣道道場の家に生まれたのだから、当然のことだった。
 物心ついた頃から竹刀を握っていた気もする。
 以来、剣道は、令の習慣だった。
「習慣です。それに、剣を振るのは楽しいですし」
「おまえは、剣道の意味を考えたことがあるか」
 父は、まっすぐ令を見つめる。
 生半可な言い逃れなどさせない。
 そういう目だ。
 試合中の目だった。
 これは、試合なのだ。
「それは……」
 十歳の子供とはいえ、令は頭がよかったから、答えを探すことができた。
「剣道は、武士道を伝えるものです」
「ならば、武士道とはなんだ」
「武士道とは……武士の道です」
「武士とはなんだ」
「お殿様に仕える戦士です」
「そうだ。ならば、君主に仕える戦士の道とは、なんだ」
「君主のために戦うことです」
「おまえの仕える君主とは、誰だ」
「君主……?」
 父はうなずいた。
「おまえの言うとおり、剣道は、武士道──剣術と融合した思想を伝えるものだった。だが、人を斬ることは、この現代では許されない。どのような武術も、形骸化する」
「けいがいか……?」
「形だけしか残らない、ということだ。本来の戦いなら、刀で相手を斬ったら、死ぬか、傷を負う。だが、竹刀で叩いても、少しばかり痛いだけだ」
 試合中の父は、相手が子供だろうが、実の娘だろうが、容赦なく叩く。
 手加減はない。
 だから、相手は負けまいとして、自然と強くなる。
 もちろん、厳しい稽古に挫折する者も多かったけれど。
 なにかについて語る時も同じだ。
 子供だからといって手加減しない。
 令は懸命に、父の言葉を吸収しようと試みた。¥
「柔道もそうだ。嘉納治五郎というひとりの天才が、殺し合いだった柔術を、『道』──思想に昇華した。わかるか」
「殺し合いからスポーツになった、ということでしょうか」
 父は深くうなずいた。
「なぜ、剣術が生まれたか、わかるか?」
「強くなるためです」
「なぜ、強くならなければならない」
「誰にも負けないためです」
「戦いがあるから、強くなる必要が生じる。そうだな」
「はい」
「人間は、狩りのために戦った。なんてことはない。武術とは、狩りの技術だ。そして、獲物を他人に奪われないように、人間相手に戦う技術が発達した」
「はい」
「剣術も同じだ。自分の財産を……大切な人を守るための技術だ。おまえには、守らなければならないものがあるか」

 つい二時間ほど前のことだ。
 令が他の練習生と混じって稽古に励んでいると、由乃がやってきて、竹刀を貸してくれ、と言った。
 時代小説の好きな由乃のことだ、剣客の真似でもしたくなったのだろう。
「由乃は体が弱いんだから、ダメだよ」
 由乃は胸を患っていた。
 悪環境にさらされると、よく倒れた。
 令にとっては軽い運動でも、由乃にとっては重労働となった。
 毛糸のマフラーやニット帽をかぶり、防寒対策をしているつもりらしかったが、それでも体を動かしていなければ、たちまちかじかんで動けなくなるくらい寒い。
 現に由乃の体は、寒さで小刻みに震えていた。
 そんな環境で、竹刀を振りでもしたら、どうなるかわからない。
 令は、わざと怖い顔を作ってみせた。
 すると由乃は、対抗するように、頬をぷくっとふくらませた。
「私、弱くなんかないもん。見てて!」
 勝手知ったる他人の家、令が止める間もなく、由乃は物置から一振りの竹刀を引っぱり出してきた。
 令も使っている小学生用の大きさではなく、一般男子用だから、十センチ近く長く、重量もだいぶある。
「由乃!」
 令の制止の声が引き金となった。
「えい!」
 由乃は見よう見まねで上段に構えると、一気に振り下ろし──
 そのまま倒れた。

 守らなければならないもの。
「私が守るべきものは、由乃です」
 父はうなずいた。
「それもひとつの答えだ」
 そこでいったん言葉を切り、続けた。
「だが、守る者と守られる者に、貴賤はない。わかるか」
「きせん……?」
「上下だ。守る者も守られる者も、対等だということだ」
「はい。私と由乃は、対等です」
 父は、令の目をじっと見つめた。
「いずれ、わかる時がこよう」
 どういう意味なのか。
 令が問いかけた時だった。
「あなたたち、いつまでそんなことやってるの」
 道場の入口のところに、いつの間にか母が立っていた。
「いいだろう、男同士の話ってものがあるんだ」
「令は女の子よ」
「そうだった、そうだった」
 とぼけるその顔は、いつもの温厚な父のものだった。
 ふたりの試合は終わったのだ。
「お夕食ができてますからね。冷めないうちに召し上がってください」
「わかったわかった」
 苦笑いしながら、父がすっくと立ち上がる。
 令も立ち上がろうとしたが、長時間の正座のせいで、足がうまく動かない。
 バランスを崩しかけたところに、手がすっと差し出された。
「足がしびれたか?」
 父の、ごつごつとした、大きな手が、令の体を支えていた。
「まだまだ修行が足りないな」
 父はにやりと笑った。



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