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All Apologies



プロローグ

 K駅から住宅街へ少し離れると、まだ夜の九時だというのに、人通りがまったくなくなる。聞いた話では犯罪も多いらしい。
 でも、中央線沿線という交通の便、安くておいしい定食屋がたくさんあることなどを考えると、いまさら引っ越すなど考えられない。それに、六本木ヒルズまで、三十分もあれば着いてしまう。通勤に時間などかけたくなかった。
 行きつけの定食屋で食事を摂り、近くのスーパーで缶チューハイを買うと、蓉子はまっすぐアパートに向かった。
 スーパーからは歩いて五分だし、大通りも近い。リスクを最小限に抑えるのが、水野蓉子のやり方だった。
 路地に入れば、住宅が建ち並んでいる。なのに、住人にお目にかかる機会がほとんどない。不思議な町だ。
 辻をふたつも過ぎれば、アパートが見える。
 最初の辻を過ぎた時、通りの向こうから、妙な声が聞こえた。
 誰かが上機嫌で歌をがなり立てているらしかった。
 男とも女ともつかない、低いハスキーボイス。
 メロディはめちゃくちゃだ。
 酔っぱらいか、よほどの音痴だろう。
 関わり合いたくない相手だ。
 蓉子は、いったん大通りに引き返そうと考えた。リスクは最小限に抑えなければならない。
 踵を返しかけた時、その歌詞がわかった。

  マリア様の心 それは山百合
  私たちも欲しい 白い山百合

  マリア様の心 それはサファイア
  私たちを飾る 光るサファイア

 何年ぶりだろうか。
 母校リリアン女学園で何度も聞いたことのある典礼聖歌、「マリア様のこころ」だ。
 サファイアのくだりは五番だ。
 この歌は五番までしかないはずだが、歌はまだ続いた。

  マリア様の心 カート・コバーン
  錆びる前に燃え尽き 猟銃自殺

  ハロー、ハロー、ハロー、ハウ・ロー(どれくらいひどい?)
  ハロー、ハロー、ハロー、ハウ・ロー
  ハロー、ハロー、ハロー、ハウ・ロー
  ハロー、ハロー、ハロー……

 途中から、ニルヴァーナの「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」になっている。
 続く、けたけたという笑い声。
 聞き覚えのある笑い声だった。
 蓉子は駆け出した。
 はたして、ふたつめの辻を曲がると、ひとりの酔っぱらいを発見した。
 半透明のゴミ袋がソファーであるかのように、もたれかかるように倒れていた。
 右手には、ウイスキーの瓶。
 だいぶくたびれてはいたが、ウイスキーと同じ色のロングコートは、彼女が愛用していたカシミアの物だ。

  ア・ムラート(混血児)
  アン・アルビノ(白子)
  ア・モスキート(蚊)
  マイ・リビドー(私の欲望)
  ……イェー!

「ごきげんよう……聖」
 蓉子は、酔っぱらいの名を呼んだ。
 佐藤聖。
 かつてリリアン学園の生徒の代表、白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)となったこともある、蓉子の友人だ。
 彼女の姿は、悲しいまでに、あの頃と変わっていなかった。



1.

 ぶつぶつと何事かをつぶやく聖を支え、アパートの二階、自分の部屋に運ぶ。
 いったんベッドに放り投げると、コップにミネラルウォーターを注ぎ、聖に差し出した。
 聖は、薄く笑うと、ウイスキーの瓶を開け、一口飲む。
 そして、また笑う。
 蓉子は、聖にコップの水をかけた。
「……あ?」
 先ほどまで冷蔵庫でよく冷えていたミネラルウォーターは、聖の頭を、多少は現実に引き戻したようだった。
 目をぱちくりとしばたたかせている。
「つめたい……な」
「起きた?」
「ああ……」
 聖が、のろのろと上体を起こし、部屋を見まわす。
「あんた……誰」
「水野蓉子」
「ミズノ……ヨウコ?」
 聖は、金田一耕助のように、頭をぽりぽりと掻いた。
「どっかで聞いた名前だな……どうも、名前も顔も、覚えられないタチだから」
 蓉子は、深くため息をついた。
 唐突に、聖が声を上げる。
「あ、あああ? 蓉子!?」
「ごきげんよう」
「え、ここ薔薇の館!? ずいぶんきれいに、あ?」
 聖は、きょろきょろと部屋を見まわし、右手のウイスキー瓶を見つけ、やっと得心したようにうなずいた。
「びっくりした。酔っぱらった拍子に異次元抜けて、タイムスリップしたのかと」
「ここは私の家よ。残念ながら、異次元じゃないわ」
「らしいね」
 聖は大口を開けて、けらけらと笑う。
 陽気すぎる、と蓉子は感じた。
 初めて出会った時は、ずいぶんとつんけんとした人間だったが。
 大学を卒業して陽気になったのか、アルコールの力だろうか。
「いい部屋だねー。きれいに片づいてる」
「私が暮らしてるんだもの」
 蓉子は、無駄という言葉が嫌いだった。
 無機質な部屋ということではない。
 青空の壁紙やイルカのポスター、ベランダを飾る植物、なんとなく転がっているカラフルなボールにぬいぐるみなど、「無駄」な部分も、蓉子にとっては計算の一部というだけだ。
 この部屋の中で無駄なものがあるとすれば──
 目の前で、ベッドに寝ころんでいる酔っぱらいだ。
「あれ、私、なんか濡れてるんですけど」
「そういうこともあるんじゃないかしら」
 蓉子の手中にある空のコップとの関連性には思い至らないらしい。
「私、吐いた?」
「ここでは、まだ」
「吐きそう」
 聖をトイレに運び、便器に顔を向けさせ、ドアを閉める。
 嘔吐の音が、ドア越しに聞こえてくる。
 いらいらする。
 CDコンポの電源を入れると、CDの中のシューベルトが蓉子のために、嘔吐の音を消そうと、美しいピアノを弾き始めた。



2.

 コーヒーを淹れている間も、聖はくすくすと笑っている。
「なにが楽しいの」
「『楽しい』? 『楽しい』……だって?」
 くすくす笑う。
「楽しいことなんて、なにひとつないよ。ウイスキー以外にね」
「変わったわね」
「私が? まさか」
 聖は、ありがとう、とコーヒーカップを受け取った。
「変わらないよ、私は。初等部の頃から、ずっとこのまんまだった」
「そう?」
「変わろうとしたけど、無理だった。私はずっと、このまま」
「そうかしら?」
「ほら、覚えてるかな……久保栞って子がいたじゃない」
「覚えてるわよ」
「へえ、すごいね。私、顔も名前も覚えられないんだよね」
 わざと他人事のように言ってみせているが、聖が虚勢を張っていることは、蓉子にもわかった。
 栞の存在は、聖の中で、未だに生き続けているのか。
 当然だ。
 忘れようとして、忘れられるものではないだろう。
「まわりが見えなくなって、あんたに慰められて、志摩子と出会って、イメージチェンジしようと張り切ってさ。でも、全部空回り」
「あなた、大学卒業してから、なにをしていたの?」
 大学二年くらいまでは、密に連絡を取っていたのだが、交信がふっつり途絶えてしまっていた。
 蓉子の方も、大学三年からはゼミの管理があったし、卒業してからは、経営コンサルタントとしての仕事に忙殺されるようになったせいもあったけれど。
 それでも、月に一度は、メールを送っていたのだ。アドレス無効で突き返されるまでは。
「ごめん、携帯変えて、それっきりだったわ」
 なんともあっさりとした返答だった。
「卒業してから、流れで院に入って、マルケス研究で修士号とった」
「マルクス?」
「英米文学科に入ってまで、『資本論』の研究なんかしないわよ。ガブリエル・ガルシア=マルケス」
 ガブリエル・ガルシア=マルケスは、ノーベル文学賞を受賞した南米の作家だ。
 現実と幻想の区別が曖昧な独特の文体は、「マジックリアリズム」と呼ばれ、高い評価を受けている。
「すごいじゃない、修士さまだなんて。よりによってマルケスとはね」
「ま、英米文学に入るかって言ったら、ギリギリなんだけど。ほら、コンスタントに事件が起きるじゃない。だから飽きずに読めるのよ。『族長の秋』の原文は勘弁して欲しかったけど」
 まさか聖と、文学の話ができるなんて思ってなかった。
 友人が、本当に院を出たのだ、と実感が抱ける。
「で、博士にならないかって言われて、一年間我慢したんだけど、ダメだったわ。興味が持続しなかった」
「なんで?」
「無心に本を読むのと、研究して、論文を仕上げるのは違うから」
 趣味と学問は違う。
 そういうものなのだろう。
「で、就職活動したんだけど、ことごとくダメでさ。院時代のコネで、ちょろちょろって簡単なバイトもらって食いつないでる。ここ来たのも、そのバイトの知り合いと飲むためよ」
「飲んだあとに、片手にウイスキー瓶というのは、感心しないわね。そのうちアル中になるわよ」
「なってるよ」
「……本当に?」
 聖のことだ。
 軽いジョークだと受け取った。
 受け取りたかった。
「本当にマジ。酒が切れると、指先が震えるのよ」
 と、聖は、指をまっすぐそろえ、高々と掲げた。
 指先は、少しも震えていない。
「ハイル・ヒトラー! なんてね。ナチス閣僚がアル中だったら大笑いよね〜。ヒトラーが通る度に、ゲーリングやヘスが指ぶるぶる震えさせるの」
「全然笑えない」
「どうして? 笑ってよ」
 あはは、と聖がひとりで、愉快そうに声を上げる。
「笑えないわよ」
 まったく、笑えないジョークだ。
「アルコールの海でもがいて、あなたはなにを手に入れたの? 逃げてるだけだってことくらい、頭のいいあなたならわかってるんでしょ?」
「『逃げ』? お説教ならやめてよ。面接官にまで説教されたってのに」
 聖は、からのコーヒーカップを差し出し、立ち上がった。
「コーヒーごちそうさま。腕は衰えてないわね」
「ありがとう」
「帰るわ」
 それから聖は、きょろきょろと部屋を見まわして、ようやく気づいたらしい。
「アーリィ、どこ?」
「ウイスキーのことかしら」
「そうよ。どこ?」
「捨てたわよ」
「冗談でしょ? 全然笑えない」
 コートをまさぐり、冷蔵庫を無断で開け、ベッドの下を覗き、挙げ句、書棚を引っかきまわし始めた。
「ちょっと、ちょっと、やめてよ」
 蓉子は聖の肩をつかみ、家捜しを留めさせようとするも、ハエでも追い払うように振り払われた。
「どこよ、どこなのよ!」
「本当にないのよ。あなたがトイレにいる間に捨てたの」
「外ね」
 聖は、立ち上がる暇すら惜しいとばかりに、四つん這いで玄関へと向かう。
「空き瓶なら外よ」
「買ってくる。さよなら」
「どうしてそこまで溺れるのよ」
 聖は答えず、背を向けたまま、もたもたと革靴を履こうとしている。
 蓉子は、深呼吸し、言った。
「祐巳ちゃんのことね」
 玄関のドアにかかった聖の手が、ぴたりと止まる。
「本当だったんだ」
「よくご存じね」
「私は、彼女のおばあちゃんよ」
 聖は、壁にもたれかかった。
 そのままぐずぐずと座り込む。
「祐巳ちゃん」
 聖はつぶやくと、苦しげに、ぎゅっと胸をつかんだ。
「祐巳ちゃん……」
 聖の目から、ぼろぼろと涙がこぼれた。
「私にだって、知らないことはあるわ。どうしてあなたが、祐巳ちゃんのことを、そこまで好きだったのか、とかね」
 聖は、泣きながら、首を振った。
「ああ、そう。いまでも好きなのね」
 こくこくと、不器用にうなずく。
「自分を傷つけるような恋しかできないのね」
「バカなんだ、私は。バカは死ななきゃ治らないんだ」
「本当にバカよ、あなた」



3.

 ふと、聖が、頭を上げた。

「この曲……」
「え?」
 軽快で単純なピアノの音。
 すっかり忘れていた。
 シューベルトがかけっぱなしになっていたのだ。
「知ってる、この曲」
 美しく澄んだ歌声がインサートされる。
「英語版の歌詞はわからないけど」
「シューベルトもゲーテもドイツ人。この歌もドイツ語よ」
「あ、本当だ」
 ドイツ語の歌に合わせ、聖が日本語で歌い出した。

  童は見たり 野中のばら
  清らに咲ける その色愛でつ
  あかず眺むる
  紅におう 野中のばら

  手折りて行かん 野中のばら
  手折らば手折れ 思い出ぐさに
  君を刺さん
  紅におう 野中のばら

  童は折りぬ 野中のばら
  手折りてあわれ 清らの色香
  永久にあせぬ紅におう 野中のばら

 聖の涙は、涸れていた。
 蓉子は、聖の肩に、そっと触れた。
 今度は振り払われない。
 こんなことが、昔にもあった気がする。
「今日くらいは、泊まっていきなさい」
「あんたも大変ね」
「そうよ、大変なのよ。毎日々々、わからずやの経営陣を相手にして」
 聖を助け起こしてやる。
「酔っぱらった友だちの介抱までしてね」
「友だち、か。いまでも、そう言ってくれるんだ」
「いつまでも、友だちよ」
 言ってから、蓉子はわざとらしくため息をついてから、続けた。
「いつまでも、報われないけどね」
 あまりにおぼつかない足取りなので、蓉子は聖の肩を支え、ベッドまで連れていってやった。
「ソファーでいいよ」
「よくないわ。ゆっくり寝なさい」
 ロングコートを脱がし、子供の服を脱がせるように、聖にバンザイさせ、セーターをはぎ取った。
「私、お客さんだし」
「ここまで迷惑かけておいて、いまさらお客さまって言われても、かえって困るわ。さあ、寝て」
「だって、蓉子は、どこで寝るつもり」
「ソファーかな」
「自分を犠牲にするのは、やめてよ」
「わかったわ。そこまで言うなら」
 蓉子は、聖を下着姿にすると、パジャマの上下を投げ与えた。
「一緒に寝ましょ」
「はあ!?」
 聖は、素っ頓狂な声を上げた。
「シングルなんだから、我慢しなさいね」
「あのー、蓉子?」
「なに」
「私、寝相悪いよ?」
「祥子、悲鳴上げてたわよ」
 高等部二年の夏、聖と江利子と三人で、祥子の家に泊まったことがある。
 その時、聖が、隣の布団の祥子に抱きついたのだった。
「それに、知ってるよね、私が……」
「別に、誰でもいいわけじゃないんでしょ」
「そりゃあ、まあ」
 同性愛者だからといって、女ならなんでもいい、ということはないだろう。
 少なくとも、我が親友は。
「ほら、もたもたしないの。いま歯ブラシ用意するから」
 聖は、なにか言いたげにしていたが、黙って従った。



エピローグ

 しかし、これは、どうなのか。
 部屋の明かりはとうに消え、シューベルトは沈黙し、聖の脳天気ないびきと、ごうごうという暖房の音だけが聞こえる。
 いや、蓉子自身の心臓と──聖の心臓の鼓動も聞こえる。
 確かに狭い。
 ふたりを隔てているのは、薄手のパジャマだけだ。
 蓉子は、聖に背を向けるように、体を横にした。
 酒くさいな、さすがに。
 どうしよう。
 眠れない。
 明日は仕事なのに。
 なぜこんな、胸が高鳴っているのだ。
 目が冴えてしまった。
 泊めなければよかったか。
 困った。
 困ったぞ。
 完全に計算が狂ってしまった。
 参った。
 どうしようかなあ。

 聖が、寝返りを打った。

 うわ。
 蓉子の背中に、聖の胸が密着している。
 聖の腕が、蓉子の首にまわされた。
 まずい。
 これはまずい。
 理由のない危機感が、蓉子の頭の中で空回りしている。
 寝ているふりをしてからかっているのか。
 そういう様子もなかったが。
 息、酒臭いんですけど。
 ぎゅっ、と力が込められる。
 蓉子の首筋に、聖の唇が押し当てられた。
「せ、聖!?」
「うーん」
「聖、起きなさいよ。聖!」
 言葉とは裏腹に、蓉子の口からは、ささやくような低い声しか出ない。
 体は、金縛りにあったように動かなかった。
「ううん……」
 聖は、かすかに身じろぐだけだ。
「祐巳ちゃん……」
 どうやら、学生時代の夢でも見てるらしい。
 本当に、報われないな。
 蓉子はため息をつき、眠る努力を始めた。



Aug.12.2007 コタニ
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