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前編

Summerteeth(後編)



3.

 通風のため、ビスケットのドアは開けっぱなしなので、誰かが階段を登ってくれば、ぎっしぎっしと足音が聞こえてくるはずだった。
 でも、新たな訪問客は、幽霊のように、足音ひとつ立てずに現れた。
 乃梨子のクラスメイト、松平瞳子だ。
「ごきげんよう」
 トレードマークの縦ロールふたつが、宙でぽよんと跳ねる。
「おいっす」
 乃梨子は、瞳子をちらりとだけ見て、また書類に目を落とした。
 といっても、書類の処理が進んでいるわけでもない。
 「あと五分で終わる」仕事が、三十分経っても終わっていなかった。さっきから乃梨子が続けている仕事は、手の中でペンをぐるぐるまわすことくらいだ。
「ここは涼しくていいですわね」
「そうね」
「黄薔薇のつぼみ(ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン)が、よろよろと薔薇の館から出ていかれましたけど、あれはなんですの?」
「私もそれを考えてるところなのよね」
 由乃さまは、祐巳さまのことが好き。
 どのような意味で好きなのか。
 ふたりの顔が浮かぶ。
 乃梨子が考えている間に、勝手知ったるなんとやら、瞳子は冷蔵庫を開けた。
「……あら、ケーキですわね」
 由乃さまの手によって八分の一にカッティングされたいちごのケーキが、まだ六つも残っていた。
 乃梨子がラップして、冷蔵庫の中に入れておいたのだ。
「聖さまの差し入れ。薔薇さま方、帰ってこないなあ。ひとつ食べていいよ」
 許可を出す身分ではないとは思ったものの、薔薇さま方は帰ってこないし、瞳子は先日まで、祥子さまの穴を埋めてくれていたのだ。
 数もあまっている。ならば、瞳子にも食べる権利はあるはずだった。
 瞳子は、麦茶の入ったコップを乃梨子の前に置いた。
「あ、サンキュ」
 それから、乃梨子の向かい側の席に自分の分の麦茶とケーキを用意すると、むしゃむしゃと食べ始めた。
「……瞳子、なにしに来たの?」
 麦茶を一口飲んでから、瞳子は答えた。
「なにか用がなければ、来てはいけませんの?」
「いいや。また、祥子さまにまとわりつきに来たのかな、って」
「まあ、いやな言い方。祥子お姉さまに、ご挨拶しに来ただけですわ」
「……あんたさ、『祥子お姉さま』っての、やめなよ」
「どうして?」
「祐巳さまに悪いよ」
「瞳子にとっては、お姉さまですもの」
 祥子さまの妹(プティ・スール)の枠は、すでに埋まっていた。
 福沢祐巳さまである。
 一方で、瞳子は、祥子さまの親戚で、昔からなついていたらしい。
 『祥子お姉さま』というのも、その時の名残だ。
 先月、祐巳さまと祥子さまの仲がこじれた要因に、瞳子が一役買っていたようだった。
 乃梨子には、これ以上言う気もなかった。
 クラスメイトとはいえ、他人の人生に、これ以上介入したくはなかったし、乃梨子自身、『姉妹(スール)』という概念を、未だにつかめていない部分があったからだ。
 と、そこまで思考して、乃梨子は気づいた。
 瞳子なら、先ほどから乃梨子の頭に巣くっている疑問に、光明を投げかけてくれるかもしれない。
 ケーキを食べ終えた瞳子は、皿に残ったスポンジのひとかけらと格闘していた。
 手を使ったり、皿に口をつけるのは、このリリアンではルール違反なのだった。
「ねえ、瞳子」
「なんですの?」
「女同士って、恋愛するもの?」
 ぶっ。
 瞳子が小さく吹き出す。
 皿に残っていたスポンジのかけらが、どこかへ舞い散った。
「ど、どうして」
「いや、私の知り合いの話なんだけど」
「知り合いの……」
 瞳子が、妙な顔で、乃梨子の目を見つめている。
 そうか。
 しまった。
 恋愛相談で『知り合いの話』といえば、『知り合いの話を装った自分の話』になるものなのだった。
「えーと、私の話ではないの」
「乃梨子さんの話ではないのね。ええ、ええ。わかってます、わかってます」
 瞳子は深くうなずいた。
 泥沼にはまり込んでしまったようだ。
 乃梨子は深く息を吸い、腹をくくった。
「この学校にいる、私の知り合いの女の子の話なんだけど。どうも、クラスメイトに、恋をしているようなのよ」
「ふんふん」
「そういうのって、この学校じゃ、よくあるの? 私の勘違いなのかも、って……」
「舞台なんて関係ありませんわ、乃梨子さん」
 瞳子はすっくと立ち上がると、まるでスポットライトの中にいるように、両腕を大きく広げる。
「女の子が女の子を好きになってしまう。それは、相手が女の子だから好きになったわけではないのです。好きになった相手が、たまたま女の子だっただけ。どこにもおかしいところなんてないのですわー!」
 それから乃梨子に向かって、びしっ! と人差し指を突きつけた。
「だから乃梨子さん、それはきっと『勘違い』ではありませんわ。自分の気持ちに嘘をつかないで」
「勘違いしてるのはおまえだ!」
 たまらず乃梨子は立ち上がった。
「私じゃないっつってるだろうに!」
「ええ、ええ、乃梨子さんのお知り合いの話でしたわね」
 乃梨子まで、芝居がかった動作に釣られているのだろうか、大仰に髪をかきむしった。
「別に私は、同性愛の一般的擁護なんていらないの! そういうことが、この学園で多いのかっていう統計を……」
「あるようですから、安心してくださいませ」
 瞳子は、自身の肩を抱きしめ、天井を仰ぎ見た。
「乃梨子さんの想いは、きっと通じます……」
「いいかげんにしろっ!」
 ばん!
 乃梨子が思い切り机を叩くと、テーブルの食器が少しだけステップを踏んだ。
 瞳子が目をぱちくりとさせる。
「だいたい瞳子、おまえな、適当なことばっか言ってるけどな。自分がその子の相手だったらどうするんだ? 『好きです』って言われたら、つき合ってやるのか? キスされても平気なのか?」
「それは……」
 乃梨子は、テーブルを回り込み、瞳子につかつかと歩み寄った。
 入学当時からそうだ。
 瞳子の親切には、どこかそらぞらしいところがあった。
 自分が満足するための、友情の介在しないお節介。
 それで相手の悩みが解決するならまだしも、おもしろ半分に掻き回すだけというのが、乃梨子には、以前から気に入らなかった。
「もし私がその『女の子』で、あんたが『女の子が好きになったクラスメイト』だったらどうするんだ?」
 瞳子が身を引こうとするので、乃梨子は二の腕をぐいとつかんだ。
「痛っ! じょ……冗談でしょう?」
「私とキスできるのか? あ? できないだろ!?」
 乃梨子は、ただ、瞳子自身が、どれだけうわべで他人とつき合っているかというのを教えてやりたかっただけだった。
 だが。
 瞳子は、目をつむった。
「……は」
「ど、どうぞ」
「ほ、本当にいいの」
「いい……ですわよ! リリアン生徒に二言はありませんわ!」
 そうか。
 瞳子もあとに退けないのか。
 少し震えている。
「震えてるわよ」
「そ、そりゃ、ファーストキスです、もの」
 マジか。
 乃梨子は唾を呑み込んだ。
 キスするだけだ。
 キスしたら勝ちだ。
 いや、そうなのか?
 相手が覚悟を決めた時点で、負けではないのか?
 というより、なんでこんなことになってるんだ?
 いいや、いいや。
 瞳子は怖がっている。
 キスしかけたら、逃げ出すに決まっている。
 ファーストキスを、私なんかにやるわけないさ。
 乃梨子は、ぐい、と体を引き寄せた。
「ひっ」
 腕の中で、瞳子が体をこわばらせる。
 これでどうだ。
 逃げるだろう。
 そら、逃げろ。
 おかしいぞ。
 逃げない。
 目を、さっきより、ぎゅっとつむるだけだ。
「の……りこ、さん」
「は、はい」
 返事の声が裏返る。
「乃梨子さんになら……あげても……」
 おい。
 待ってくれ。
 乃梨子は心の中で悲鳴を上げた。
 これでは負けではないか。
 むしろ、試されているのは自分か。
 しかも。
 いい匂いがする。



4.

 通風のため、ビスケットのドアは開けっぱなしなので、ぎっしぎっしと誰かが階段を登ってくる音がよく聞こえる。
 が、松平瞳子ほどではないが、足音を立てずに登るのが得意な生徒がいた。
 いつもなら気づく程度の音量だけど、乃梨子も瞳子も取り込み中だったから。
 その人が、ばっちり見ていることに気づかなかったのだ。
「あのう……」
 よく聞き慣れた声に、条件反射。
 乃梨子は、瞳子から飛び退いた。
 乃梨子の姉(グラン・スール)、藤堂志摩子さんが、困ったように笑っていた。


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