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Lithium



 放課後の音楽室には、誰もいないように見えた。
 蟹名静はここが好きだったから、部活のない日でも、度々ここを訪れた。
 図書委員の仕事までには、まだ時間に余裕はある。一曲歌うくらいはできそうだ。
 並べてある机の脇を抜け、グランドピアノの椅子に座り、適当な鍵盤を弾く。
 ぽーん、と、高い音が鳴る。
 よし。
 静は、その音に続けて、ピアノを弾き始めた。
 ピアニストじゃないから、若干たどたどしくはあったけれど、手習い程度になら弾けた。
 軽快なピアノの音色が、音楽室に、リリアンの中庭に響き渡る。
 静の口から、美しいソプラノが漏れた。

  Sah ein Knab' ein Roslein stehn,
  Roslein auf der Heiden,
  War so jung und morgenschon,
  Lief er schnell, es nah zu sehn,
  Sah's mit vielen Freuden,
  Roslein, Roslein, Roslein rot,
  Roslein auf der Heiden

 静の目の前に、草原が広がる。
 一面に広がる草原。
 萌える緑の中に、一点だけ、紅を差したように真っ赤な薔薇を見つける。
 静は、側で見ようと、急いで近づく……。

 二番に入ろうとした時、がたん、と音がした。
 静の手がぴたりと止まる。
「んあ……」
 いかにも寝起きの声が、並べてある机の中から漏れる。
 何者かが、上半身を起こす。
 静の知っている生徒だった。
 どこか日本人離れした、彫りの深い顔と、白く抜ける肌。
 さらりとした長い髪。
 白薔薇のつぼみ(ロサ・ギガンティア・アン・ブゥトン)の、佐藤聖さまだ。
 彼女のことを知っているといっても、知識として知っている程度のものだ。
 図書室で何度か見たことがあっただけで、面識もなければ、興味もなかった。
「ごきげんよう、白薔薇のつぼみ」
 静は、座ったまま声をかけた。
 並べた椅子でずっと寝ているような人間とはいえ、先輩で、かつ、つぼみ(ブゥトン)なのだ。挨拶くらいはせねばなるまい。
 聖さまは、髪をくしゃくしゃとぞんざいに掻いた。
「その呼び名、舌噛まない?」
「どの呼び名……ですか?」
「ロサなんとか」
「いえ、別に。合唱部ですから、この程度は」
「ああ、道理で、ここに」
 自分から尋ねたくせに、その答えに興味がないとでもいうかのように、聖さまは大きくあくびした。慎み深いリリアン生徒の振る舞いとしては、赤点をつけねばならないだろうが、彼女自身には似合っている。
「じゃあ、もう、ホームルームは終わったのか」
「図書室に向かうんですか」
 聖さまは、不思議そうな顔をした。
「どうして知ってるの」
「図書委員ですから」
「そうなんだ」
 図書委員でなくとも、聖さまと、一年下の久保栞さんがつき合っているのは、学園周知の事実だった。
 この人は、自分が他者から見られる立場だということに、自覚症状がないのだろうか。
 『つぼみ』と呼ばれることも、聖さまにとっては迷惑なようだった。
 聖さまは、のろのろと立ち上がると、ドアへ向かう。
「ねえ」
 聖さまはドアのところで振り返った。
「なんでしょう」
「あんたが歌ってた曲、なんての? 聞いたことあるんだけど」
「シューベルトの『野ばら』です」
「へえ」
 また、自分から求めた答えに興味がないとでもいうように、聖さまはあくびした。
 だから静は、少しいたずらしてやりたくなった。
「どういう歌詞か、ご存じですか?」
「いいや」
「乱暴される少女の歌なんですよ」
「……へえ」
 静は、今度は日本語で、最後まで歌ってみせた。

  童は見たり 野中のばら
  清らに咲ける その色愛でつ
  あかず眺むる
  紅におう 野中のばら

 聖さまは、手近な机に腰かけ、目をつむって聞いた。

  手折りて行かん 野中のばら
  手折らば手折れ 思い出ぐさに
  君を刺さん
  紅におう 野中のばら

  童は折りぬ 野中のばら
  手折りてあわれ 清らの色香
  永久にあせぬ紅におう 野中のばら

 静は、グランドピアノの蓋を閉めると、聖さまと共に音楽室を出た。
「さっき歌ったのは、近藤朔風の訳詞ですが、本来のゲーテの詩は違うんです」
 ふたり並んで廊下を歩く。
 ごきげんよう、と下級生に挨拶されても、聖さまはまるで相手にせず、静に話の続きを要求した。
「どう違うの?」
「少年が、『おまえを折るぞ』と言うと、薔薇は『折るのなら、あなたが忘れないように、あなたを刺します』と言います。でも、抵抗むなしく、薔薇は折られてしまうんです」
「へえ……おもしろいね。ゲーテらしいや」
 うんうんと聖さまはうなずいた。
「ゲーテ、ご存じなんですか?」
「『若きウェルテルの悩み』、好きだよ」
 なにもかもブッ壊したがるところがいい――聖さまはそうコメントした。
 静は、ゲーテを、そんな風に評する人間を初めて見た。
「あ」
 と、聖さまが声を上げた。
 廊下の先に、栞さんが立っていた。
 聖さまは、静の存在を忘れたように、栞さんに駆け寄ると、そのまま振り返らずに行ってしまった。
 静は、取り残された。



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