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Heart-Shaped Box プロローグ 早めに起きて、シャワーを浴び、風呂上がりに朝のダージリンを飲むのが、このところの蓉子の日課だった。 徹夜仕事などの眠気をすべて吹き飛ばしてくれる。 カーテンを勢いよく開けた時の音も好きだった。 身が引き締まる。 窓を開けずとも、冬のひんやりとした空気が、アパートの部屋の中へと、徐々にしみこんでくる。 まだ午前四時、夜はなかなか明けない。 ノートパソコンを取り出し、メールのチェックを始める。 大量のメールが、蓉子の目を通し、脳に伝達される。 「ふあっくしょん!」 派手なくしゃみが、脳に伝達したデータを霧散させた。 蓉子のものではない。 彼女のベッドで寝こけている、誰かさんのものだ。 「ふあっくしょん! ふあっくしょん! ふあっくしょん! うう……」 その誰かさんは、無意識にぬくもりを求め、布団をかき集めようとしている。 寝かせておくのもしゃくだ。 蓉子は、布団をはぎ取り、ソファーへ投げ捨てた。 「起きなさい、聖」 「ん……寒い」 『誰かさん』こと、蓉子の友人である佐藤聖は、ベッドから転げ落ちると、寝ぼけまなこのまま、ソファーへと這って進む。 間もなくソファーへとたどり着くが、そこに布団はない。 蓉子が先回りして布団を取り上げ、今度はベッドに放り投げたのだ。 「ふとん、どこよ」 聖は、うめくように言った。 「だから、起きなさい、聖」 言いながら、蓉子は、布団を折り畳み始めた。 「……ここ、どこ。ウイスキーは」 「水野蓉子の部屋です」 「ああ、薔薇の館か。ずいぶんきれいになったなあ」 「まだ寝ぼけてるの?」 聖は、上半身をむくりと起こした。 「……ようこ?」 「おはよう」 「……おはよう。ここ、蓉子の部屋?」 「そうよ」 蓉子はうんざりした。 まるで覚えていないのか。 聖は、やっと、自分の格好に気づいたようだった。 カシミアのコートでなく、見知らぬパジャマを着ていた。 「まさか」 と、聖の顔から血の気がみるみる引いた。 「どうしたの?」 「私、蓉子とヤッてないよね」 1. 蓉子はこめかみを押さえると、聖に、ソファーに座るよう命じてから、昨夜あったことを一から説明し始めた。 仕事から帰ると、アパートの前のゴミ捨て場に、聖がゴミ袋にもたれかかるように倒れていたこと。 泥酔した聖を部屋に運び込んで、コーヒーを飲まし、蓉子のパジャマを着せ、寝かせたこと。 性的な意味において、聖は、蓉子の体に指一本触れていないこと。 2. 説明を終える頃には、窓の外が、黒から青へと転じていた。 朝を告げるすずめの声が聞こえる。 エアコンの暖房をつけたこともあるだろう、聖は、あからさまに安堵していた。 「だってさ、私と蓉子がセックスしてるなんて、想像できないよ。したくもないし」 聖はからからと笑った。 「そうね」 蓉子だって、想像したくなかった。 想像してはいけないような気がしたからだ。 「そうそう、昨日、仕事の打ち合わせで、ちょっと飲みすぎたんだよ。駅前に、いいベトナム料理店があってさ」 「私も知ってるわ」 「アルコール度数が四十度のベトナムの焼酎があるっていうから、頼んでみたら、これが甘くてすっきりした飲み心地でね。『ネプモイ』ってんだけど。ハイペースでぐいぐいいった挙げ句、二十度のも頼んだら、記憶消えた」 「肝臓壊すわよ」 「だって、ほら、飲まなきゃ死んじゃうから」 冗談のつもりらしいが、まったく笑えない。 聖が、アルコール中毒だと告白していたのを思い出した。 「そうそう。私、なんか夢見てたよ」 「どんな夢?」 「栞がいた。……あ、久保栞って子のこと、覚えてる?」 覚えてるか、と、わざわざ強調してくる。 聖と栞にまつわる一連の事件において、蓉子は半ば関係者だった。 解決のために奔走した。 聖と蓉子を友人として結びつける要因でもあったから、蓉子が忘れるわけがないのだ。 聖だってわかっているはずだ。 蓉子に確認しているわけではないのだ。 栞のことが、聖の中で、もはや軽い存在であり、忘れ去るべき要素なのだとアピールしたいだけなのだ。 アピールすればするほど、聖にとって、彼女のことが、未だに重い存在であると示すだけなのだが。 「リリアンでさ、あの当時の格好のまんま。髪も腰くらいまで伸ばしてて、ちょっとうざったかった」 「夢に出てきたのは、栞さんだけ?」 「うん。……いや」 聖は、膝を指でとんとんと叩いた。 リズムを取るように。 「誰かが『野ばら』を歌ってるのを聞いたよ」 「シューベルトの?」 「うん」 「昨日、この部屋で歌ったこと、覚えてないの?」 酔っぱらった聖が、蓉子の持っているCDに合わせて、『野ばら』を歌ったのだ。 「覚えてないなー」 まだ夜の九時くらいだったから、近所迷惑というほどではなかったが、もっと夜中に家に引き入れていたら、どうなっていたかわからない。 しかも、歌った本人は、覚えていないというのだ。始末に悪い。 蓉子は、昨日から何度ついたかわからないため息をまたつくと、朝食の準備を始めた。 3. ありものの具材を鍋に放り込み、適当に炒める。 聖は、いちいち料理に文句を言うような人間ではないし、文句を言う立場でもないだろう。 じゅうっという気持ちのいい音がする。 リビングからは、テレビの音声が聞こえてきた。 ケーブルテレビに加入しているため、蓉子の部屋では、CNNを直接見ることが可能だった。 イラク戦争が失敗だったとか、核の問題がどうとかといったニュースが流れている。 炒めた物を皿に載せ、ごはんと、作り置きの味噌汁と一緒にリビングに運んだ。 「おー、うまそうじゃない」 皿には、塩こしょうをかけた肉野菜が乱雑に載っかっているだけだが、聖はがつがつと食べ始めた。 「うまいうまい」 「うれしいわ」 先ほどまでの不機嫌はどこへやら、蓉子は素直によろこぶと、自分も朝食を摂り始めた。 なんだかんだで、自分の料理を食べてくれればうれしいものだ。 それとも、相手が聖だからだろうか。 聖は、瞬く間に平らげた。 「私の分もどうぞ」 「悪いね、昨日の昼からなんも食べてなくて」 「それでお酒飲んでたってわけ? 度を超した飲酒はやめなさいよ。車だって乗るんでしょ」 「大丈夫、大丈夫。手遅れだから」 「あなたねえ……」 蓉子が説教を始めようとした時だ。 「あ」 聖は小さく声を上げると、箸を休め、テレビを注視した。 「えっ」 テレビを見た蓉子の箸の動きも止まる。 CNNの名物ホストであるラリー・キングと、日本人の女が話している。 若い女だ。 蓉子たちと変わらないくらいの歳に見える。 身にまとった白いドレスと、黒い髪の対比が印象的だ。 蓉子の見覚えのある顔だった。 すぐにはわからなかったが、女の顔がアップになり、テロップが表示された瞬間、その名を思い出した。 「蟹名静さんが」 リリアン女学園で、蓉子と聖の一年下だった生徒だ。 卒業前に、音楽の勉強をしに、イタリアへ留学したはずだった。 テロップの説明書きには、イタリア発信のロックバンド『ロサ・カニーナ』のヴォーカル、とあった。 続いて、アメリカの、どこかのコンサートホールで撮影された映像が映し出される。 九年前と違い、彼女の歌う曲は、フォークソングに近かった。 しかし、彼女の、高く澄んだ声は変わらない。 「『ラリー・キング・ライヴ』に出演だなんて……嘘だろ」 聖も蓉子も、しばし惚けたように、口をぽかんと開けていた。 「みんな、活躍してるんだね」 「そうね」 「……あー、思い出した」 聖は、ぽん、と手を叩いた。 「夢の中で歌ってたの、彼女だ」 「静さんが?」 「うん、音楽室で。私が寝てる時に、歌ってたんだよ」 「夢の中でも寝ていたの? あきれた」 テレビは、もう、別のニュースを映していた。 「多分、あの日が、彼女と初めて会った日だ。いまのいままで忘れてた。ずっと忘れてたよ」 「人の顔を覚えないことにかけちゃ、あなた以上の天才はいないわよ」 「褒めるなよ」 「褒めてないわよ」 聖に遅れ、蓉子は、やっと自分の朝食を平らげた。 「まったく、残酷ね」 聖の分の食器を台所に運びながら、蓉子は言った。 「どうして」 聖は不思議そうに蓉子を見つめた。 「静さんって、聖のことが好きだったんでしょう」 「らしいね。私のこと、好きだって言ってくれた」 でも、私を愛してくれるわけじゃなかったのだろうな。 聖はさみしそうにつぶやいた。 「誰かに愛して欲しいの? 変わらないのね」 言いながらも、蓉子は食器を洗う手を休めない。 「わからない。ひとりでいたいのかもしれない」 聖は、自分で自分の肩を抱いた。 「寒い」 「大丈夫ー? 風邪でもひいた?」 「ウイスキー、どこ?」 「捨てたわよ」 斬って捨てるように答えると、聖の声色が変わった。 「じょ……冗談でしょ」 横目でちらりと見ると、聖が、がくがくと震え出していた。 暖房は入っているはずなのに。 「いやだ。いやだよ。笑ってるんだ」 蓉子は、食器を降ろした。 「誰が」 「志摩子が」 「しま……って、そんな。あの子は」 蓉子が二の句を継ぐ前に、聖の座っている椅子が、ぐらりと揺れ―― がたん。 倒れた。 真横に倒れても、聖は、自分の肩を抱いたまま、がくがくと震えている。 自分が倒れたことに気づいていないようだった。 寒がっているのではない。 痙攣しているのだ。 「ちょ、ちょっと!」 蓉子はリビングに飛び込み、抱き起こした。 「あ、あ、あああああ」 聖は、うめきながら、蓉子の腕の中で小刻みに震えている。 「そうだ、一一九番……」 「よ、して」 聖は、ゆっくりと手を持ち上げ、蓉子の頬を触った。 頬に触れる手もまた、震えている。 「ここに、いて」 しばらくすると、聖の痙攣は収まった。 4. 蓉子は、一一九番ではなく、顧問の会社に電話し、遅刻の旨を伝えた。 「大丈夫なの」 携帯を閉じる蓉子に、聖は声をかけた。 「あなたの方が大丈夫じゃないでしょう」 蓉子の言葉通り、聖はベッドで、布団にくるまっていた。 顔面は、色白の一言では説明がつかないくらい、蒼白になっていた。 「一日空けるわけにはいかないけど、できる限りの準備はしていくわ。今日は休んでいきなさい」 「……ごめん」 珍しく、聖は、しおらしい声を出した。 「いまさら謝らないで」 「いつ、謝ればよかったの」 十年前の、あのクリスマスイヴだ。 そんなこと、言えるはずもなかった。 だから蓉子は、代わりに言った。 「お酒、もうやめなさい」 「たいしたことないんだよ。こんなの、いつものこと。酒が入れば治るんだ」 「やめなさい。いいわね」 「無理」 「どうして」 「怖い」 聖は、涙すら浮かべ、おびえていた。 もはや、いつもの軽薄な佐藤聖は、どこにもなかった。 蓉子が一度も見たことのない聖だった。 「怖くなんかないわよ」 「でも、志摩子が、笑ってるんだ。笑いながら、私のことをなじるんだよ。『おまえなんて最低な人間だ』、って」 「そんなこと、有り得ないわ。だってあの子は……」 蓉子は、一瞬だけためらい、続けた。 「死んだのよ」 聖は首を振った。 「わかってる。でも、いやだ。志摩子に会いたくない」 アルコール依存症の人間が、アルコールを抜いてしばらくすると、幻覚や手足の痙攣などの症状を引き起こすということは、なにかで読んだことがあった。 離脱症状、俗に言う『禁断症状』である。 だが、聖のアルコール依存症が、そこまで進んでいたとは。 「いいから、やめるの。やめなさい。親御さんにも連絡を取るわ」 「それだけはやめて!」 聖は、よくホラー映画のヒロインが上げる悲鳴のような金切り声でわめいた。 「あいつらにまで責められたら、私は」 蓉子は頭を抱えた。 そろそろ出る準備をしないと、叱責程度じゃ済まなくなる。 なんとか打開策をひねり出さないと。 「わかったわ。わかった」 蓉子は、追い詰められた脳が思いつくままに言った。 「あなたが飲まないように、私が見張るわ。だから、この部屋に住みなさい」 「悪いよ。それに、仕事あるんでしょう」 「あるわよ。だから、行く間は我慢しなさい」 「できないわ。一日だって、我慢できない」 「なら、そう、ええと……」 蓉子は、懸命に考えた。 いまの聖は、子供も同然だ。 子供に言うことを聞かせるには、どうすればいい? そうだ、ご褒美だ。 「一ヶ月我慢できたら、ご褒美をあげる」 「……なに?」 なんだ。 なにならいいんだ。 考えろ。 おまえにあげられるものは、なんだ。 カネか。 そんなものをあげてもよろこぶまい。 聖がよろこびそうなものといったら、 「私をあげるわ」 つい、蓉子は、衝動的に言ってしまった。 「あ、あはははは」 聖の口から、渇いた笑いが漏れる。 「ジョーク、ナイスジョーク。笑った。ひさしぶりに笑えた」 蓉子は、なにも答えなかった。 「……本気?」 「聖の欲しいものなんて、わからないもの」 「やめてよ」 「やめて欲しいのはこっちよ!」 蓉子は怒鳴りつけた。 なんで私は、こんな奴のために悩まなければならないのか。 多少なりとも、仕事を犠牲にしているというのに。 「もういい。勝手にしなさい」 蓉子は、もう聖と関わるのをやめ、急いで身支度を整えた。 髪の毛も化粧も、社会人としてみっともないと思われない程度の必要最低限に済ませる。 ベッドに向かって、声を投げかけた。 「具合がよくなったら出ていきなさい。鍵は管理人に言えばいいから。好きなだけ飲んで、私の目のつかないところでくたばればいいわ!」 はらわたが煮えくり返るままに、乱暴に玄関のドアを閉め、部屋をあとにした。 エピローグ 缶チューハイは、昨夜買ったのが残っているはずだ。 飲めば、今朝のうさは忘れられるだろう。 私は聖と違うから、一缶で十分だ。 蓉子は皮肉っぽく笑うと、住宅街の角を曲がった。 住んでいるアパートが見えてくる。 蓉子の部屋の明かりがついていた。 まさか。 蓉子は小走りに階段を登り、玄関のドアを開けた。 リビングでは、聖がソファーに寝そべり、テレビを見ていた。 今朝に較べて、ずいぶんと顔色がいい。 「おかえり、蓉子」 「た……ただいま」 「ほら、見て見て、MTV。『ロサ・カニーナ』が映ってるよ」 森で、たくさんの紋白蝶が飛ぶ中、静さんがフォークソングを歌っている映像が映っている。 聖の右手には、缶が握られていた。 グレープフルーツジュースの缶だ。 「断酒一日目」 左手でVサインを作ってみせる。 「断酒できないんじゃなかったの」 「それがさ、想像してみたのよ」 「なにを」 「蓉子の、『あの時』の顔」 「なっ」 蓉子の顔が、火がついたように紅潮した。 Sept.13.2007 コタニ
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