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Raindrops Keep Fallin' On My Head(前編)



プロローグ

 志摩子と乃梨子の『関係』の萌芽は、乃梨子が高等部一年の夏、石仏巡りの旅行の途中で始まった。
 三十三間道には、何十体もの千手観音像がずらりと並んでいる。
 観音様の他には誰もいない、がらんとした空間。
 志摩子は突然かがみ込み、泣き出した。
「いなくならないで」
 と志摩子は言った。
 乃梨子はどうしていいかわからず、志摩子の背中をやさしくさすった。
 その晩、旅館で眠りについたのもつかの間、隣の布団で寝ていた志摩子が叫び声を上げて目覚めた。
「怖い」
 志摩子は窓を凝視した。
「あそこにいるの」
「なにが?」
「悪魔が」
 乃梨子は、ぷっと吹き出した。
「なにもいないよ」
 事実、なにもいなかった。
 通りの向こうの旅館が、街灯に照らされぼんやりと浮かび上がっているだけだった。
 木造の、少しうらびれた、雰囲気のある作りだったから、夜になにか出ると言われれば、信じてしまいそうな空気はあった。
「さっきまでいたの!」
「寝ぼけてるんだね」
「信じて!」
 志摩子にも存外子供っぽいところがあるものだ。
 そう考えはしたが、目に涙さえ浮かべ、強く訴えるものだから、昼間と同じく、赤子をあやすように、背中をさすってあげた。
 同じ布団で寝てちょうだい、と志摩子は言った。
 こんなに近い距離で寝ているのに、なにを言っているのだろう。乃梨子は首をかしげた。
 だが、志摩子は、同じ布団で寝たいと言い続ける。
 承諾したのは、自分の姉(グラン・スール)が、滅多にわがままを言わないからだった。
 それに、姉妹(スール)の関係が逆転したようで、おもしろくもあった。
 乃梨子は、志摩子の布団に潜り込んだ。
 いい匂いがした。
 これが志摩子さんの匂いか。
 志摩子は、乃梨子の胸に顔をうずめた。
 くすぐったかった。


1.

 ふたりは、『青春18きっぷ』を使っていた。
 格安だが、急行などを使えないため、のんびりとした旅行になる。
 名も知らぬ安宿は、それはそれで風情のあるものだ。
 東京から京都まで、ゆっくり時間をかけて移動し、また東京に戻ってくる。
 女同士の、気軽なふたり旅になる予定だった。
 乃梨子は、志摩子とふたりで、各地の石仏や教会をまわり、普通なら行かないような山村に赴くことができたことに、深い満足を覚えた。

 志摩子は、夜になると時々、なにかにおびえ、乃梨子の布団に入ってくるようになった。
 昼間になると、志摩子は夜のことなど、おくびにも出さなかった。
 いつもの、ふわりとした、乃梨子の知っている『志摩子さん』だった。
 夢ではないのか。
 夢を見ているのは、自分の方ではないのか。
 志摩子の態度が、昼と夜であまりにも異なっていたため、乃梨子はそう錯覚したほどだった。
 東京入りを控えた夜のことだ。
 布団の中に入り込んできた志摩子が、乃梨子に、なんの前触れもなくキスをした。
 唇を重ねただけのキス。
 数秒のことだったが、乃梨子には、何分にも、何時間にも感じられた。
 志摩子は、すぐに、昨晩や一昨晩と同じように、乃梨子の胸に顔をうずめたため、その表情をうかがい知ることはできなかった。
 乃梨子は、ただとまどった。

 東京に戻ってからも、頻繁に連絡を取ったが、やはり志摩子は、あの夜のことに触れようとしなかった。
 あるいは、二重人格ではないのか。
 夏休み後半は、山百合会の会合が頻繁に開かれる。
 体育祭や文化祭など、秋は学校行事が目白押しだから、準備しなければならない。
 学校に行く度に、図書館に足を運んだ。
 これまでのように、寺社仏閣関係の本ではなく、精神医学に関する本を読んだ。
 トップランクの成績で入学した乃梨子といえど、初めて触れる分野の本だったこともあり、難渋した。


2.

 八月も終わろうというある日のことだ。
 山百合会の会合を終え、図書室に寄って帰る道すがら、ひどい雨が降った。
 ほんの数十秒前までは気持ちのいいくらいの晴天だったのに、急に暗雲立ちこめたかと思うと、空で誰かが大きなバケツをひっくり返したような雨に見舞われた。
 さらに、風が強かったため、雨滴が横殴りに吹きつける。
 外にいた乃梨子は、すぐ近くの温室に駆け込むと、後ろ手にドアを閉めた。
 肩で荒く息をする。
 急な運動をさせたため、心臓が驚いてばくばくと脈打っていた。
 そのおかげで、髪の毛や袖が少し濡れただけだ。
 温室の外も、中も、灰色に染まっていた。
 新しい方の温室ではなく、講堂の近くにある、古い温室だ。
 ガラスが少しひび割れていて、時折雨が吹き込むこともあるが、雨宿りには向いているようだった。
 借りてきたばかりの本も濡れていなかった。
 冬に来たら寒そうだな、と乃梨子は思った。
 古い方の温室に来るのは、初めてだった。
 新しい方の温室にしか行ったことがなかった。
 志摩子の所属する環境整備委員会は、古い方の温室の整備をほとんどしていなかったから、乃梨子も、古い方には近寄ることがなかった。
 ならばいったい、誰がここを整備しているのだろうか。
 立てつけの悪いガラスが、かたかたと暴れた。
 雨がやむまでと、乃梨子は本を開いた。
 解離性同一性障害――いわゆる『多重人格』についての本だ。
 本の内容を乃梨子が理解した限りでは、なんらかのストレスから逃避するために、メインとは別の人格を生み出すらしい。
 ストレスというのとは、少し違う気がした。
 乃梨子は、頭の中でふさわしい言葉を探そうとして、すでに夕暮れ時になっていることに気づいた。
 雨はまだやまず、あたりは一段と暗くなっていた。
 走るしかないか。
 覚悟を決めた時、温室のドアが開いた。
 傘を持った志摩子が立っていた。
 薔薇の色と同じ、白い傘だ。
「どうして」
「いるような気がしたの」
 これこそ、志摩子さん。
 乃梨子の姉(グラン・スール)だった。


3.

 夏も終わりとはいえ、じめじめして暑苦しかった。
 傘は一本しかなかったので、ふたりは寄り添うように傘を持った。
 『相合い傘』などと称せるほど、雨はふたりにやさしくなかった。
 雨は風に吹かれ、傘の下に入り込んでくる。
 並木道を通るうちに、傘に守られていない首から下が濡れてしまう。
 特に、露出した足首や、ずぶ濡れの靴下が気持ち悪い。
「バス亭までの我慢だね」
「そうね」
 校門が近づき、ふたりが小走りになりかけた時。
 びゅうっ、と強い風が吹き、傘がめくれ上がった。
 続いて、ばきばきと、布地が骨から剥離していく音。
 一瞬のうちに、純白の傘は、骨だけのしかばねになり、ふたりは濡れ鼠になった。


4.

 数十分後。
 ふたりはマンションの一室にいた。
 乃梨子が住まわせてもらっている、大叔母の菫子の部屋だ。
 なぜか、きれいに片づけられていた。
 いつもは、『汚い』というほどではないけれど、雑誌や飲みかけの酒が置いてあったりと、清潔とは言い切れないのだけれど。
 今日は、ちりひとつ落ちていない。隅々まで掃除機がかけられていた。
 菫子が、志摩子を呼ぶことを予知していたようにも思えた。
 その部屋の主は、まだ帰ってきていない。
 バスルームからは、シャワーの音が聞こえる。
 客が風呂に入っている間、乃梨子はずぶ濡れの制服からTシャツに着替えた。
 夏場はいつもこの格好だった。
 志摩子は前もって、コンビニで下着を買ってきている。
 泊まっていったらいい、と乃梨子が提案したのだ。
 ついでに、菫子にも紹介してあげたかった。
 リリアンに通うようになったのは、菫子のおかげなのだ。
 彼女がいなければ、志摩子とも出会わなかったことになる。
 着替えが一段落ついてから、やっと乃梨子は、リビングのテーブルの上に書き置きを見つけた。
「……おわ」
 用事があって、三日ほど帰らない、と書いてあった。
 もちろん、菫子が書き残したものだ。
 だから、部屋がきれいだったのだ。


5.

 ふたりはパジャマを着ていた。
 両方とも、乃梨子の物だ。
 暑く、じめじめしていた。
 雨は降り続けていたから、窓を開けることもできない。
 冷房をつけようとしたのだが、志摩子はいい顔をしなかった。
「冷房、嫌いなの?」
「乃梨子が蒸し暑いなら、つけてちょうだい。ここは私の家じゃないんだから」
「じゃあ」
 と、乃梨子は、冷房のリモコンを手に取る代わりに、上着を脱ぎ、タンクトップ姿になる。
「これでいいか」
「そうね」
 上着を脱いでも暑かった。
 扇風機くらい用意しておけばよかった、と乃梨子は思った。クーラーのある生活に浸りきっていたせいで、それ以外の涼をとる手段を用意していなかった。
 何時間も前から、空は暗いままだったから、時間の経過を感じられなかった。
 ふたりは特になにもしゃべらず、ソファーにぐったりともたれかかっていた。
 シャワーを浴びたとはいえ、雨の中を突っ切ってきたことで、体力が失われていた。
 夕食はカレーだった。
 菫子さんの作り置きのカレーが、三日分のつもりか、鍋いっぱいに用意されていたのだ。
「乃梨子は、いつも、こういうお夕飯なの」
「いつも、じゃないけど……」
 むしろ、初めてかもしれない。
 菫子さんは、なんだかんだで美食家だった。
 その外見と同様、いつも洒落た料理を作ってくれた。
 カレーを作るにも、インドで仕入れたスパイスをブレンドするところから始めるタイプだ。
 しかし、なんだ、これは。
 皿に盛ったカレーライスを目の前に、乃梨子は唖然とした。
 じゃがいものかたまりが、荒れ山に転がる大岩のように、ごろんごろんと入っている。
 居候の分際で大きなことは言えないが、なにも、志摩子を招待した日に、これはないだろう。
「別に、他意があるわけじゃないのよ。少しにびっくりしただけ。小学校で食べた給食を思い出したわ」
 体力が尽きていたから、料理する気にもなれない。
 レタスやトマトを適当な大きさにカッティングし、ドレッシングをかけ、即席のサラダを作る。
 菫子さんの作ったものだったので、見た目は豪快なカレーも、十分おいしかった。


6.

 食事を摂ったことで、眠気が近づいてきた。
 乃梨子は、眠るのが怖かった。
 今夜も志摩子は、一緒に眠ろうと言ってくるのだろうか。
 キスされてしまうのだろうか。
 なんのつもりでキスしたのだろうか。
 関係を壊したくなかったから、自分から尋ねることもできない。
 十一時まで、映画を観た。
 金曜日だったから、テレビで映画をやっていた。
 『ある日どこかで』という、かなり昔のラブストーリーだった。
 乃梨子は、映画を観る方ではなかったし、観るとしても、他のことをしながらだった。
 今日に限っては、眠る時間を先延ばしにしたかった。
 映画に集中したのは、夜になるにつれて、志摩子となにを話していいかわからなかったからだ。
 テーマ曲であるラフマニノフのラプソディが流れる中、ひたむきな恋人同士の想いと、避けられない悲劇が展開される。
 普段集中しなかったおかげで、乃梨子はひどく感情移入した。
 我知らず、涙がこぼれた。鼻水をすすり、みっともないくらい泣いた。
 あっという間に二時間が過ぎた。
「いい映画だったわね」
 涙こそ流していないものの、志摩子も楽しんだようだった。
 ティッシュを二、三枚取ると、乃梨子の涙と鼻水を拭った。
「ねえ、乃梨子」
「なに」
 乃梨子は、鼻をすすりながら返事した。
「乃梨子は、どこにも行かないわよね」
 と、志摩子は、ささやくように言った。
 驚きのあまり、乃梨子の涙が、ぴたりと止まった。
「どうして、そんなことを言うの」
「どうしてって」
 志摩子は、困ったように笑った。
「乃梨子に、どこにも行って欲しくないから」
「うれしいけど、でも……志摩子さん、どうしたの」
「どこにも行かないで」
 その口調は堅かった。
 祥子が祐巳に言うのより、もっときつく、やさしさの感じられない口調だった。
 懇願ではない。
 命令なのだ。
「う、うん」
「約束して」
「どうやって」
「誓うの」
「知ってると思うけど……私、クリスチャンじゃないよ」
「でも、誓うの」
 志摩子から、笑みが消えていた。
「わかった。どうすればいいの」
 志摩子は、左手で、乃梨子の左手を握った。
 つけっぱなしのテレビでは、いつ芸能界から消えるかもわからないコメディアンが、なにが楽しいのか、大きな声で笑っている。
「乃梨子、誓って」
「……どこにも行きません。志摩子さんから、離れません」
 口にした途端、体の内から、高揚感が湧き起こった。
「ずっと?」
「うん、ずっと」
「一生?」
「一生。どっちかが死ぬまで」
 どきどきした。
 乃梨子は、誓いの言葉を述べる自分に酔っていた。
「ねえ、乃梨子。知ってる?」
 志摩子は、指を絡めた。
「左手はね、とても神聖な手なのよ」
「どうして?」
 志摩子は、空いている右手で、乃梨子の左胸を触った。
「心臓に近いから」
 とん、と、軽く胸を突かれる。
 乃梨子は、そのままソファーに倒れ込んだ。



後編
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