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The Stars of Track and Field



 高城典(たかぎ・つかさ)の、田舎の従姉妹の家には、たくさんの少女マンガが置いてあった。従姉妹のお母さん(つまり伯母)がマンガが大好きだったので、『鉄腕アトム』の最初の頃の版まであった(典が読ませてもらったのは、別に買ってあった復刻版だったが)。その血は、娘にも引き継がれていたというわけだ。
 典は毎年、夏休みになると、かならず一週間くらいは田舎の家に滞在した。
 初等部の低学年の頃までは、蔵書のマンガを片っ端から読んだ。
 ある時は、家具が少なめの、よく片づいた(しかし図書館の一コーナーのように本がぎっしりと詰め込まれている)従姉妹の部屋で。ある時は、伯母のように、乾燥した、木造家屋の書斎で(そこには、図書館よりも本が集まっていた)。
 その小さな空間に、数多くの物語、数多くの世界が広がっていた。
 手塚治虫、横山光輝、川原泉、赤塚不二夫、篠原千絵、星野架名……。
 中でも一番ハマったのは、和田慎治つながりで知った、美内すずえの『ガラスの仮面』だった。
 みそっかすの少女、北島マヤが、演劇と出会い、その才能を開花させていく物語である。
 読んで、初めて典はこう考えた。
 もしかしたら自分も、マンガの人物になることができるのではないか。
 中学年からは、もちろんマンガも読んだが、従姉妹相手にごっこ遊びをした。
 野山は、格好の舞台となった。
 観客は、リスや鳥や虫くらいのものだった。
 演技の基礎というには幼く、拙いものだったが、確実に培われていた。

 気がつけば、典は、演劇部に入部していた。
 彼女はそこで、才能と出会った。
 松平瞳子だった。
 一年下の彼女は、なんでも演じてみせた。
 年上の少女から、おとなの男から、老人から、動物から……。
 中等部一年の、入部したばかりのある日のことだ。
「すごい!」
 練習の寸劇が終わった時、典の胸の奥から感情がほとばしり、その言葉となっていた。
 皆が、ぎょっとして振り返る。
 典は赤面して、縮こまった。
 部活が終わると、瞳子が典の前にやってきて、深々と礼をした。
「お褒めくださり、ありがとうございますぅ」
 甘ったるく、語尾を軽く伸ばす。
 演じている時と、口調もまるで違った。
「どうして、あんな演技ができるの?」
 初等部だというのに、瞳子はオフィーリアを易々と演じてみせた。
 懊悩し、やがて発狂する悲劇の王女を。
「練習しましたからぁ」
「練習すれば、瞳子ちゃんみたいになれるの?」
 瞳子は、あごに人差し指を当て、いかにも『考えてます』といったポーズをとってから、言った。
「練習しないうちに、答えを出すのは早すぎると思いますぅ」
 子供が導き出したからこそ、子供にも理解できる、単純な道理だった。
 典は、それから、練習に励んだ。
 甘えは捨てた。
 努力せずに得られるものなどないのだ。
 北島マヤだって、そのライヴァルの姫川亜弓だって、みんな努力してきたのだ。
 やってやる。
 『紅天女』だろうがなんだろうが、やってやるんだ。

 瞳子は、光だった。
 典は瞳子の影だった。
 影は、ぴったりと、そこに存在し続ける。
 光を追い越すことはできない。

 練習の甲斐もあり、ナンバー4くらいの実力を身につけることができた。
 高二の春には、部長から、次期部長に任命されもした。
 演劇部の部長は、自分の妹(プティ・スール)を部長に選ばなかった。部長の妹の方が、自分よりも実力があったのに、だ。
「なぜなのですか」
 典は、部室でふたりきりの時に、部長に詰め寄った。
「実力とは、単に、演ずるだけの力ではないの。周囲の『和』を重んじることができなければいけない」
 部長は、部室を見まわした。
 ちらかり放題で、部外者、しかもおしとやかなリリアン生徒たちから見れば、がらくたの山に住んでいるのかと驚かれるだろう。
「この部屋と一緒よ。それぞれの道具は大切でも、整理されなければ、ただの混沌にしか見えない。個々の素材が我を張るだけでは、秩序は形作られないの」
「この部室を、ですか」
「あなたなら、この部室を整頓することができる。瞳子ちゃんとみんなとの仲を、ずっと取り持ってきたじゃない」
「ああ、あれですか」
 瞳子は、度々トラブルを起こした。
 実力がある者は、望む望まざるに関わらず、事件に巻き込まれてしまうのだ。
 加えて、厄介なことに、瞳子は、その甘えるような口調とは裏腹に、徹底した実力主義者だった。
 自分にも他人にも、妥協を許さなかった。
 さらに、新入生歓迎会のエピソードが、噂として伝わっていた。
『白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)の大事にしていた物を粗末に扱った』
『薔薇さま方と親交がある』
 これらふたつの、ともすれば矛盾しがちな『事実』が、瞳子と、同年代の部員との溝を深めていた。
 中等部三年から高等部一年にかけて、たいていの生徒は、心のどこかで、薔薇さま方との距離を意識し始める。
 あわよくば、自分がつぼみ(ブゥトン)となろうと考える者もいるだろう。
 そういった者たちにとって、あの松平瞳子が薔薇さま方とも近いというのは、許し難いことだったのだ。
「あなたが部長になれば、演劇部はうまくまわる。私は、そう確信している」
 部長は、とんでもない勘違いをしていた。
 典は別に、演劇部自体をよくしようなどと考えていなかった。
 ただ、瞳子を追いかけ、瞳子のトラブルを、少しでも軽減してやりたかったのだ。
 自分の目指す光が、くだらない些末なことに手間取る光景は、見ていたくなかったから。
「だから、私には……」
 無理です、と言いかけた時。
「いいえ」
 部長は、典の両肩に手をかけた。
「あなたの、その、瞳子ちゃんへの愛情が必要なの」
 結局、典は、次期部長を引き受けることになった。

 部長となって初めて手がけたのが、学園祭の『若草物語』だった。
 北島マヤが、劇団に入って最初に演じた作品でもあったが、選んだ理由はそれだけではない。
 メジャーであること、筋がシンプルなこと、そこそこ文学性があるように見えること。
 『若草物語』は成功といえたが、典としては、一度、息抜きしたかった。
 瞳子と他との折衝に疲れ切ってしまっていたのだ。
 このままでは、『役者としての自分』が消えてしまうのではないか。
 三年生になったらどうするのかも考えていなかった。
 見つめ直すためにも、対外折衝の面では気を抜き、外から見たかった。
 『三年生を送る会』で、演劇部も出し物をすることになっていた。
 格好の舞台だ、と典は考えた。

 瞳子は、部活だけでなく、学園からも疎外されつつあった。
 見ていればわかった。
 原因は、福沢祐巳にあるようだった。
 彼女は、紅薔薇のつぼみ(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)だった。
 まるで普通の少女だった。
 なぜ、あんな子が、薔薇の館の住人になったのか。
 なぜ瞳子は、祐巳のことを目で追っているのか。
 祐巳に近づいては、傷ついて帰ってくるのか。
 その価値があるのか。

 いまの自分になにができるのか。
 美内すずえに、自分を部長に推挙してくれた前部長に、そして瞳子に。
 典は、あるひとつの考えに行き着いた。
 ふたり芝居の案である。
 題材はもちろん、『奇跡の人』しかない。
 三重苦の娘ヘレン・ケラー。
 それを導くサリヴァン先生もまた、かつては盲目であった。
「難しい劇ですよ」
 と、瞳子は言った。
 それはそうだろう。
 目も見えず、耳も聞こえない――つまり、触覚、嗅覚、味覚以外の感覚を遮断された経験など、ふたりともなかった。
 しかも、その『経験』を前提とした演技を付与しなければ、説得力を持たせることはできない。
「私にだって……」
 典は、手で、瞳子の口をふさいだ。
「んむっ!?」
「『練習しないうちに、答えを出すのは早すぎる』……とある大女優の言葉よ」
 瞳子は、手を払いのけた。
「聞いたことありません。誰ですか?」
「松平瞳子」
「記憶にありませんし、『大女優』でもありません」
「これからなるのよ」
 典は、手を差し伸べた。
「私が、あなたを、次のステージへ導くわ」
 そうだ、典は思った。
 影があるからこそ、光は一層際立つのだ。
 ならば私は、よろこんで瞳子の影になろう。



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