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The Man Who Sold the World



プロローグ

 二〇〇四年は、聖にとって節目となる年だった。
 年始に、七年ほど前に出版されたコスモス文庫の小説『いばらの森』が、なんとアニメ化された。
 須賀星こと春日せい子の自伝であるこの小説は、出版されたばかりの頃、リリアン女学園で、「聖が書いたのではないか」という疑惑を抱かれたことがあった。それほど、『いばらの森』の内容と、二年生の頃の聖が酷似していたのだ。
 アニメ化されたのは、ネットの口コミによって、『いばらの森』という作品の再評価がなされたことが大きかった。
 聖は、アニメの『いばらの森』を一話だけ見たが、半ば泥酔していたので、内容は記憶にない。
 聖の夜の時間は、アルコールで満たされていたからだ。
 二〇〇四年といえば、イラク戦争の翌年でもあった。
 つまり、志摩子の訃報が聖の下に届いた年だ。
 ブッシュと違い、平和的なクリスチャンだった志摩子は、イラク戦争を許せなかったらしい。
 イラク戦争以来、いろんなNPO・NGO団体に混ざって紛争地域に赴いては、社会的・経済的な弱者たちの救援活動に赴いた。
 だが、志摩子を殺したのは、『社会的・経済的弱者の代表』であると主張する過激派組織によるテロ活動だった。
 報せを聞いた時、なんの感慨も湧かず、聖はとまどった。
 だが、酒量は明らかに増えていた。
 大学院のゼミにも、二日酔いの状態でよく出席した。


1.

 不謹慎だ。
 一週間くらい経ったある日、聖は、主任教授の研究室に呼び出された。
 君は学問をする気がないだろう、と言われた。
 書物だらけの研究室だった。
 本棚ばかりではなく、応接に使うテーブルすらも、本で埋まっていた。
 聖は、大学一年の時につき合っていた子と似たような部屋だと思った。
 本が好きで、内気な子だった。
 聖の物思いをよそに、教授は言った。
「学問とは、謙虚に、何度も、殿堂の門を叩く者にのみ、その道を示すのだ」
 老いた男の教授だった。
 はげかかっていて、残った髪の毛はすべて白く染まっていた。
「君はなんだ。アルコールの悪臭を香水代わりに振りまいて。なんのために、この学びやにやって来ている」
 頭痛がした。
 吐き気も続いている。
 眼精疲労がひどく、目を開けていたくなかった。
 思考は寸断され、かき乱されたが、長続きさせたくもなかった。
「すみません」
 聖は謝罪の言葉を絞り出した。
 一時間ばかり続いた説教の間、なにも言い訳はせず、ただ、すみません、と繰り返した。
 申し訳ありません。
 これからは、このようなことがないようにします。
 こうして聖は、その教授の授業の前日だけは飲まないだけの分別を身につけた。


2.

 志摩子の訃報から二週間くらい経って、ようやく、葬式の案内が来た。
 志摩子の妹(プティ・スール)である乃梨子から電話がかかってきたが、行けるかどうかわからない、と言葉を濁した。
 実際には、聖は、会場に向かっていた。
 武蔵野にある、カソリックの教会だ。
 六月だった。
 葬儀に集まった人間の悲しみなど知らず、夏の日差しが教会に照りつけていた。
 聖は、特に、正装をしていかなかった。
 白いシャツに、白いパンツ。白いスニーカー。
 サングラスの黒が目立つ。
 教会の扉は閉まっていた。
 薔薇の館の二階の、木製の扉を連想させた。
 あの扉を『ビスケット』と称したのは、誰が最初だったか。
 開ければ、生徒会の全員がそろっている気がする。
 蓉子、江利子、祥子、令。
 祐巳ちゃんに由乃ちゃん。
 そして、志摩子。
 我知らず、聖は扉に近寄っていた。
 扉に手を触れる。
 外の暑さに反比例して、ひんやりと冷たかった。
 ごとり、と中で音がした。
 葬儀が終わったのだろうか。
 次々と立ち上がる音がする。
 聖は背を向けると、走り出した。


3.

 暑い。
 太陽がじりじりと聖を責め立てる。
 聖は、逃げ場所を求めた。
 昼間の二時、がらがらな喫茶店は、クーラーが利いていた。
 ビールが、よく冷えていておいしかった。


4.

 その日も二日酔いだった。
 痛む頭をさすり、ふらふらと大学の構内を歩いた。
 半袖の生徒たちが、日なたを大股で堂々と行き交う。
 外は、じりじりと暑い。
 適当な教室に行けば、クーラーが利いていることはわかっているが、二日酔いのままクーラーの冷気を浴びたくはなかった。
 自動販売機でグレープフルーツのジュースを買い、手近なベンチに腰を下ろす。
 嘔吐感をかき消すように、冷えたジュースを喉に流した。
 二日酔いを体験する度に、酒をやめたいと思う。
 しかし、やめられるものではなかった。
 アルコールでごまかさなければ、いろいろなことを考えてしまうから。
 でも、二日酔いになると、余計にいろいろなことを考えてしまう。
 志摩子。
 志摩子。
 死んだ、私の妹。
 


5.

 秋に入り、酒量はさらに増えた。
 授業を受ける気がしない日は、近くのコンビニで、つまみと缶チューハイを何本か買い、大学のベンチに腰かけ、ひとりであおった。
 わざわざ大学の構内を選んだのは、子供じみた反抗心だったのだろう。
 ある日、女子大の校舎で、二条乃梨子と鉢合わせした。
 聖は、すでに始めていたから、授業に出るつもりもなかったし、乃梨子の方は、聖の顔を見た時から怒りを顕わにし、授業どころではないようだった。
 開けたばかりの五百ミリ缶を一気にあおり、少ない荷物をまとめる。
 ふたりは、人のいない校庭を歩いた。
 ふたりとも無言だった。
 どちらからともなく、女子大の門を抜け、全学年共通の敷地である並木道にさしかかった。
 銀杏の並木道だ。
 授業中だからか、ふたりの他に人影はない。
 木々には、実が生っている。
 なぜ、志摩子の葬式に来なかったのか。乃梨子が、ぽつりと言った。
 自分の言葉が導火線となり、乃梨子の口から、次々と罵声が湧き出た。
 おまえは最低だとか、クズ人間だとか、なぜ志摩子さんを止めなかったのだとか、そういった内容の話だった。
「止めてどうなるの」
「死なずにすみました」
「どうかなあ」
 考えがまとまらない。
「どうなのかなあ」
 昔なら、気の利いた言葉を選ぶことができたはずだった。
 聖は、思考なんてしたくなかった。
 考えたくないから、酒を飲むのではないか。
 銀杏は、つまみに絶好だ。
 きっと志摩子は、そのことを知っていて、銀杏を拾っていたのだ。
 早く落ちないものか。
 乃梨子がなにか言い続けている。
 言葉が、言葉として認識できなくなっていた。
 物質が原子レベルまで分解されるように、文章が漠然とした単語の集合になり、ただの文字に解体され、音声でしかなくなる。
 聖は、気だるさを感じ、ぐらぐらと地べたに座り込んだ。
 乃梨子が振り向き、また怒鳴っていた。
 聖は前のめりに倒れた。
 額が、こつんと地面につく。
 足音が遠のいていく。
 舗装された地面が、ひんやりと冷えて気持ちよかった。


6.

 その姿勢のまま、どのくらいが過ぎたろうか。
 休み時間になったらしい。
 何人かが、聖の横を通りすぎていった。
 立ち止まる者もあったが、声をかける者はなかった。
 いたのかもしれないが、聖にはわからなかった。
 わあん、わあん。
 あらゆる音が輻輳している。
 聖の耳は、大気のかすかな振動までも、音として認識した。
 気持ちいい。
 額から、舗装路を伝い、体温と酔いが取り去られていく。
 音が小さくなった。
 休み時間が終わったのだろうか。
 何者かが近づいてきた。
 それまで通りすぎた者と違い、その人物は、聖の腕を手に取った。
 なにか言っている。
 繰り返されるうちに、解体されていた文字が言葉になった。
「……ま、聖さま!」
 聖は、声の主が誰か確認するため、首を動かそうとして、初めて、自分の体が動かないことを知った。
 どれだけ力を入れても、体は言うことを聞かない。
 金縛りだろうか。
 笑おうとしても、顔の筋肉まで言うことを聞かない。
 声も出なかった。
 二、三人が駆けつけた。
 聖は担ぎ上げられた。
 ふわふわして気持ちよかった。



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