Top  ■Profile  ■Blog  ■SS  ■Note  ■Concept  ■Link  ■Mail Form

Page 1 /Page 2



The Man Who Sold the World



7.

 手のぬくもりだけは感じていた。

 聖は、その手を握り返した。

 この手を握り続けていれば、私は、ここではないどこかへ行ける。

 地獄から抜け出せるのだ。

 聖にとって、その手は、蜘蛛の糸だった。


8.

 意識が引き上げられ、聖はゆっくりと、目を開けた。
 白い蛍光灯。
 白い天井。
 シーツの匂い。
 体育の授業を受ける生徒たちの声。
 聖は、ベッドに横たわっていた。
 右手に、手の感触を感じる。
 小さな手だが、聖の手をしっかりと握り、離さない。
 身じろぎすると、シーツがこすれ音を立てる。
 長い髪の女の子が、聖の脚を枕に、眠っていた。
 ──誰だろう。
 まじまじと寝顔を見つめ、ようやく誰かわかった。
 福沢祐巳だ。
 同じ大学に通っていたというのに、彼女の顔をまともに見たのは、もう何年も前のことになる。
 見違えたように、祐巳の寝顔は、大人びたものになっていた。
 あの時、声をかけてくれたのは、祐巳ちゃんだったのか。
 ずっと手を握っていてくれたのは、祐巳ちゃんだったのか。
 そこで初めて、聖は、自分が保健室にいることに気づいた。


9.

 聖にとって、祐巳とは、あこがれだった。
 手に入らない輝き。
 自分の持っていないものを、すべてを持っていた。
 『普通』である、ということ。
 成績表でいえば、五段階の三。十段階の六か七。
 それは、選ばれていない、ということであった。
 故に、雲上人の集まりである山百合会では、一際輝きを放った。
 祐巳を見出した祥子に嫉妬した。
 志摩子に不満があるわけではない。
 むしろ、一緒にいれば心地よかった。
 聖には志摩子。
 祥子には祐巳。
 それは理解できた。
 だが──。

 聖は、手に、少しだけ力を込めた。
 祐巳の感触を確かめるように。

 小学生のような、淡い恋だったのだ。

「ん……」
 祐巳の手が、ぴくりと動く。
 祐巳は薄目を開けた。


10.

 では、祐巳にとって、聖はどのような存在だったのだろうか。
 聖が高等部に在学していた頃、短い間だったが、祐巳は聖を姉のように感じていた。
 『スール』という意味ではなく、自分に歳の近い姉がいたなら、きっとこんな風だったろう。
 祥子との絆は、友人たちのものとは違い、神聖で、かけがえのないものだった。
 瞳子との絆もそうだ。いつまでも一緒にいられたらいい、と考えている。
 由乃や真美、乃梨子、ちさとたちとは、姉妹(スール)の関係性とは違うが、尊いものだった。
 気軽にいつでも触れ合い、騒ぐ。
 志摩子が死んだと聞かされた時は、体の一部を失ったような喪失感を覚えた。
 姉妹(スール)も友人も、かけがえのない存在であることに代わりはない。
 だが、血のつながった家族はどうか。
 祐麒がそうだ。
 どこかで、好き勝手やってくれればいい、と考えている。
 長い間一緒にいたせいで、別れに対する感情が稀薄なのだ。
 どうせ生きているだろう。
 「兄弟は最初の他人」なんて言葉があるが、まさにその通りだ。
 聖も、そうだった。
 祥子を介して出会ったのが、ちょうどいまくらい、十月の半ばだったか。
 それからたった五ヶ月くらいのものだ。
 そんな短い間でも、まるで、ずっと一緒に過ごしてきた姉のように感じた。
 困った時には、いつでも相談に乗ってくれる。
 姉(グラン・スール)の祥子と仲違いしたことが何度かあったが、最初の頃は、聖がかならずアドヴァイスをくれた。

 聖が卒業した翌年度の十月、学園祭があった。
 終わり際、聖とふたりきりになったことがある。このことはおそらく誰も、祥子でさえも知らない。
 ファイヤーストームを、トラックの土手から見ていると、聖が現れたのだ。
 聖は、その場所で、祐巳のことが好きだ、と言い、頬にキスをした。
 祐巳は驚きのあまりなにも答えられなかった。
 そこで初めて祐巳は、聖の本心に気づいた。
 気づいたが、忘れることにした。
 関係性を壊したくはなかったから。


11.

 聖はすでに起きていた。
「祐巳ちゃん」
 聖の顔が赤い。
 息が、酒くさい。
 酒が苦手な祐巳は、匂いを嗅ぐだけで酔っ払ってしまいそうだ。
「もしかして、匂う?」
「……はい」
「ごめん」
 と、聖は顔を背けた。
「私、どうしたのかな」
「寝てました」
「もしかして、並木道で?」
 聖は、あはは、と声を上げて笑った。
「なにやってるんだろうね、私ゃ」
「笑い事じゃありませんよ! びっくりしたんですよ、もう」
 なぜここまで酒浸りになってしまったのだろうか。
 祐巳には、不思議でならなかった。
「変わらないね、祐巳ちゃん」
「へ?」
「顔に出てる」
「お酒、やめてください」
「うーん」
 聖は、まいったなあ、と首をさすった。
「ごまかすには、お酒が必要なんだよ」
「なにをごまかすんですか?」
 聖は首をかしげ、白いカーテンに目をやる。
「自分の心とか、いろいろね」
 そういうことなのか。
 祐巳は、やっと得心した。
 私のせいだったのか。
 でも、祐巳の望む関係とは、決定的に違っているのだ。
「……すみません、聖さま。私は」
「謝ることはないよ」
 聖は、やさしく言った。
「祐巳ちゃんが、謝ることじゃない。悪いのは、すべて私なんだ」
「ごめんなさい」
 祐巳は、自分のことがいやになった。
 こんなやさしい先輩なのに、その期待に応えられない。
 涙があふれ出た。
「ごめんなさい」
 繰り返す。
「ねえ、祐巳ちゃん」
 聖は、手を、ぎゅっと握った。
「もう少し、離さないでいて」
 泣きながら、祐巳も、その手を握り返した。


12.

 大人の顔になったね。
 そう言い残し、聖は、祐巳を残して、先に帰った。
 もう夜だった。
 循環バスでM駅に向かい、中央線に乗る。
 祐巳には、なぜ聖が、自分を恋愛対象として見ていたのか、理解できなかった。
 聖の同性愛に関しては、『いばらの森』事件の関係で、想像はついていた。
 でも、どうして、よりによって自分なのだ。
 聖のことは好きだった。
 数え切れないくらいの恩がある。
 彼女が望むことで、自分にできることなら、なんでもかなえてあげたかったのに。
 ──少しも、大人になってなんかない。
「ただいま……」
 肩を落とし、家の玄関をくぐった。
「元気がなさそうね」
 張りのある、美しい声が、祐巳を出迎えた。
「え?」
 新年以来聞いていなかったが、忘れたわけではない。
 顔を上げる。
 祐巳の姉(グラン・スール)、祥子が、廊下に立っていた。
 どうして、ここに?
「近くに寄ったから、顔が見たくて訪ねたの。すぐに帰ってくるって聞いたから、部屋で待たせてもらったわ」
「あ、あのっ」
 どうして、どうして、ここに。
 一度は涸れた涙が、またあふれ出てくる。
 違うのは、今度の涙が、悲しくてあふれ出しているわけではないことだ。
 言葉が出ない。
「あなたの家なのよ。靴も脱がずにどうしたの」
 言われて、あわてて靴を脱ぐ。
 下を向くと、涙が、ぽたりぽたりと足下に落ちる。
 すっ、と、ハンカチが差し伸べられた。
「泣くか、靴を脱ぐか、どっちかにするの」
「はい」
 祥子は、祐巳の涙を拭った。
「ひどい顔ね」
「はい」
「まったく、子供なんだから」
「はい」
 拭われても拭われても、涙があふれ出てきた。



Page 1 /Page 2

このページのトップへ