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The Man Who Sold the World 7. 手のぬくもりだけは感じていた。 聖は、その手を握り返した。 この手を握り続けていれば、私は、ここではないどこかへ行ける。 地獄から抜け出せるのだ。 聖にとって、その手は、蜘蛛の糸だった。 8. 意識が引き上げられ、聖はゆっくりと、目を開けた。 白い蛍光灯。 白い天井。 シーツの匂い。 体育の授業を受ける生徒たちの声。 聖は、ベッドに横たわっていた。 右手に、手の感触を感じる。 小さな手だが、聖の手をしっかりと握り、離さない。 身じろぎすると、シーツがこすれ音を立てる。 長い髪の女の子が、聖の脚を枕に、眠っていた。 ──誰だろう。 まじまじと寝顔を見つめ、ようやく誰かわかった。 福沢祐巳だ。 同じ大学に通っていたというのに、彼女の顔をまともに見たのは、もう何年も前のことになる。 見違えたように、祐巳の寝顔は、大人びたものになっていた。 あの時、声をかけてくれたのは、祐巳ちゃんだったのか。 ずっと手を握っていてくれたのは、祐巳ちゃんだったのか。 そこで初めて、聖は、自分が保健室にいることに気づいた。 9. 聖にとって、祐巳とは、あこがれだった。 手に入らない輝き。 自分の持っていないものを、すべてを持っていた。 『普通』である、ということ。 成績表でいえば、五段階の三。十段階の六か七。 それは、選ばれていない、ということであった。 故に、雲上人の集まりである山百合会では、一際輝きを放った。 祐巳を見出した祥子に嫉妬した。 志摩子に不満があるわけではない。 むしろ、一緒にいれば心地よかった。 聖には志摩子。 祥子には祐巳。 それは理解できた。 だが──。 聖は、手に、少しだけ力を込めた。 祐巳の感触を確かめるように。 小学生のような、淡い恋だったのだ。 「ん……」 祐巳の手が、ぴくりと動く。 祐巳は薄目を開けた。 10. では、祐巳にとって、聖はどのような存在だったのだろうか。 聖が高等部に在学していた頃、短い間だったが、祐巳は聖を姉のように感じていた。 『スール』という意味ではなく、自分に歳の近い姉がいたなら、きっとこんな風だったろう。 祥子との絆は、友人たちのものとは違い、神聖で、かけがえのないものだった。 瞳子との絆もそうだ。いつまでも一緒にいられたらいい、と考えている。 由乃や真美、乃梨子、ちさとたちとは、姉妹(スール)の関係性とは違うが、尊いものだった。 気軽にいつでも触れ合い、騒ぐ。 志摩子が死んだと聞かされた時は、体の一部を失ったような喪失感を覚えた。 姉妹(スール)も友人も、かけがえのない存在であることに代わりはない。 だが、血のつながった家族はどうか。 祐麒がそうだ。 どこかで、好き勝手やってくれればいい、と考えている。 長い間一緒にいたせいで、別れに対する感情が稀薄なのだ。 どうせ生きているだろう。 「兄弟は最初の他人」なんて言葉があるが、まさにその通りだ。 聖も、そうだった。 祥子を介して出会ったのが、ちょうどいまくらい、十月の半ばだったか。 それからたった五ヶ月くらいのものだ。 そんな短い間でも、まるで、ずっと一緒に過ごしてきた姉のように感じた。 困った時には、いつでも相談に乗ってくれる。 姉(グラン・スール)の祥子と仲違いしたことが何度かあったが、最初の頃は、聖がかならずアドヴァイスをくれた。 聖が卒業した翌年度の十月、学園祭があった。 終わり際、聖とふたりきりになったことがある。このことはおそらく誰も、祥子でさえも知らない。 ファイヤーストームを、トラックの土手から見ていると、聖が現れたのだ。 聖は、その場所で、祐巳のことが好きだ、と言い、頬にキスをした。 祐巳は驚きのあまりなにも答えられなかった。 そこで初めて祐巳は、聖の本心に気づいた。 気づいたが、忘れることにした。 関係性を壊したくはなかったから。 11. 聖はすでに起きていた。 「祐巳ちゃん」 聖の顔が赤い。 息が、酒くさい。 酒が苦手な祐巳は、匂いを嗅ぐだけで酔っ払ってしまいそうだ。 「もしかして、匂う?」 「……はい」 「ごめん」 と、聖は顔を背けた。 「私、どうしたのかな」 「寝てました」 「もしかして、並木道で?」 聖は、あはは、と声を上げて笑った。 「なにやってるんだろうね、私ゃ」 「笑い事じゃありませんよ! びっくりしたんですよ、もう」 なぜここまで酒浸りになってしまったのだろうか。 祐巳には、不思議でならなかった。 「変わらないね、祐巳ちゃん」 「へ?」 「顔に出てる」 「お酒、やめてください」 「うーん」 聖は、まいったなあ、と首をさすった。 「ごまかすには、お酒が必要なんだよ」 「なにをごまかすんですか?」 聖は首をかしげ、白いカーテンに目をやる。 「自分の心とか、いろいろね」 そういうことなのか。 祐巳は、やっと得心した。 私のせいだったのか。 でも、祐巳の望む関係とは、決定的に違っているのだ。 「……すみません、聖さま。私は」 「謝ることはないよ」 聖は、やさしく言った。 「祐巳ちゃんが、謝ることじゃない。悪いのは、すべて私なんだ」 「ごめんなさい」 祐巳は、自分のことがいやになった。 こんなやさしい先輩なのに、その期待に応えられない。 涙があふれ出た。 「ごめんなさい」 繰り返す。 「ねえ、祐巳ちゃん」 聖は、手を、ぎゅっと握った。 「もう少し、離さないでいて」 泣きながら、祐巳も、その手を握り返した。 12. 大人の顔になったね。 そう言い残し、聖は、祐巳を残して、先に帰った。 もう夜だった。 循環バスでM駅に向かい、中央線に乗る。 祐巳には、なぜ聖が、自分を恋愛対象として見ていたのか、理解できなかった。 聖の同性愛に関しては、『いばらの森』事件の関係で、想像はついていた。 でも、どうして、よりによって自分なのだ。 聖のことは好きだった。 数え切れないくらいの恩がある。 彼女が望むことで、自分にできることなら、なんでもかなえてあげたかったのに。 ──少しも、大人になってなんかない。 「ただいま……」 肩を落とし、家の玄関をくぐった。 「元気がなさそうね」 張りのある、美しい声が、祐巳を出迎えた。 「え?」 新年以来聞いていなかったが、忘れたわけではない。 顔を上げる。 祐巳の姉(グラン・スール)、祥子が、廊下に立っていた。 どうして、ここに? 「近くに寄ったから、顔が見たくて訪ねたの。すぐに帰ってくるって聞いたから、部屋で待たせてもらったわ」 「あ、あのっ」 どうして、どうして、ここに。 一度は涸れた涙が、またあふれ出てくる。 違うのは、今度の涙が、悲しくてあふれ出しているわけではないことだ。 言葉が出ない。 「あなたの家なのよ。靴も脱がずにどうしたの」 言われて、あわてて靴を脱ぐ。 下を向くと、涙が、ぽたりぽたりと足下に落ちる。 すっ、と、ハンカチが差し伸べられた。 「泣くか、靴を脱ぐか、どっちかにするの」 「はい」 祥子は、祐巳の涙を拭った。 「ひどい顔ね」 「はい」 「まったく、子供なんだから」 「はい」 拭われても拭われても、涙があふれ出てきた。 Page 1 /Page 2 |