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Out Of Time



「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 さわやかな朝の挨拶が、澄みきった青空にこだまする。
 マリア様のお庭に集う乙女たちが、今日も天使のような無垢な笑顔で、背の高い門
をくぐり抜けていく。
 汚れを知らない心身を包むのは、深い色の制服。
 スカートのブリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻えらないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。もちろん、遅刻ギリギリで走り去るなどといった、はしたない生徒など存在していようはずもない。
 私立リリアン女学園。
 明治三十四年創立のこの学園は、もとは華族の令嬢のためにつくられたという、伝統あるカトリック系お嬢様学校でもある。
 東京都下。武蔵野の面影をいまだに残している緑の多いこの地区で、神に見守られ、幼稚舎から大学までの一貫教育が受けられる乙女の園。
 時代は移り変わり、元号が明治から三回も改まった平成の今日でさえ、十八年通い続ければ温室育ちの純粋培養お嬢様が箱入りで出荷される、という仕組みがいまだに残っている貴重な学園である。



Dec.24.1997 8.00a.m.

 そろり、そろり、抜き足、差し足。
 視線の先には、目印のツインテール。
 そうっと腕を広げ──
「捕獲っ!」
「ぎゃう!」
 聖の、期待通りの反応だ。
「白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)ぁ〜」
 祐巳が、腕の中で、弱々しげな声を上げる。
「おお、いつもながら、ぷくぷくして、いい抱き心地。カイロの代わりになるね」
「もう、白薔薇さまったら……」



Dec.24.2007 9.30a.m.

 聖は目を覚ました。
 腕の中にいるのは、祐巳ではなく、大きなパンダのぬいぐるみだ。
 時計を見れば、九時半。
 在宅仕事の気楽さか、目を覚ますのは、いつもこのくらいの時間だ。
 ひどく、喉がかわく。
 聖は、ソファーで寝ていた。
 パンダのぬいぐるみを布団の中から追い出し、毛布にくるまったまま体を起こす。
 部屋続きになったキッチンまで這いずり、やかんに火をかけた。
 1DKの部屋。
 聖がK町の蓉子の部屋に住み始め、今日でちょうど一カ月になる。
 K駅近くの飲み屋でひどく酔っ払い、さまよい、寝転がった場所が偶然、蓉子の住むアパートの前だったのだ。
 泥酔していたため、聖はその時のことを、よく覚えていない。
「梅こぶ茶があったっけ……」
 きゅうすに茶葉を適当に入れ、お湯を適当にそそぐ。
 山百合会でこんな風に振る舞えば、姉(グラン・スール)や先輩方のお叱りを受けるに違いない。
 聖は唇をゆがめた。
 遠い昔の話だ。
 なぜ思い出したのだろう。
 頭の端に、十年前の記憶が引っかかっていた。
 そうだ。
 高校時代の夢を見ていた気がする。
 茶をすすると、昆布の甘みと梅の酸味が口の中に広がる。
「はあ……」
 部屋も、部屋の外も、どこか白みがかって見える。
 冬の空気だ。
 蓉子の姿はない。
 振替休日だというのに、とっくに出かけているのだ。
「働くオトナは大変だね」
 こたつに入り、テレビをつけ、ケーブルテレビの番組表とにらめっこする。
 たまにはスペースシャワーTVでも見るか。
 チャンネルを変えると、レディオヘッドのプロモーションビデオが流れていた。
 ライヴでしか発表されていなかった「ボディスナッチャーズ」という曲だ。
「へ〜、これ、新譜に入るんだ」
 ヴォーカルのトム・ヨークが、マイクを前に、田楽人形のように首を振っている。
「よし! 仕事すっか!」
 ノートパソコンを開き、ひとり気合を入れた。



Dec.24.2007 0.00p.m.

 I駅前の広場で、昼の12時を告げる鐘がなる。
「あ」
 乃梨子は時計を見上げ、ふふ、と思い出したように笑った。
「どうしたんだ、リコ」
 と、隣を歩いていた男が尋ねた。
「『にっぽん・仏像100選』が始まったの」
「録画してるんだな」
「してなかったら、ここ来ないで、テレビにかじりついてる」
 言うと、くすりと笑い、男の腕にしがみついた。
「うーそ、だよっ」
「本当かあ?」
 男は苦笑いした。乃梨子の仏像好きは知っていたからだ。
「仏像は後回しにできるけど、あなたとの時間は、後回しにできないから」
 そのまま腕を絡め、歩く。
 I駅前は、同じように腕を組んで歩いているカップルが行き来していた。
 皆、クリスマスというイベントを、日本人なりに楽しもうとしているのだ。
 木には、クリスマスらしい金銀のモールとイルミネーションが取りつけられている。
「イヴに仏像特集なんて、NHKもやるなあ」
「おもしろいよね。なに考えてるんだろ」
「ミッション系の出身で、仏像好きっていうのも相当だけどな」
「よく言われた」
 本来、『ミッションスクール』とは、宗教関連の学校を指す言葉であるが、乃梨子も男も、キリスト教の学校のこととしか思っていない。
 この男は、会社の同僚だった。
 社内でなんとなく話が合い、プライヴェートでも会うようになるうちに告白され、つき合い出したのが半年前のことだ。
「やっぱ、なんだっけ、あの学校……」
「リリアン?」
「そう、リリアンって、イヴになると、みんなミサするわけ?」
「うーん、どうだったかな。自由参加だった気もする。覚えてないな。もう六、七年くらい前だし」
「そんなもんか」
 メインストリートを歩き、枝道に入って少しの場所に、男の行きつけのイタリア料理店がある。
 店は地下にあった。
 階段を少し下ると、入口からは、カップルの列が伸びていた。
 席が空くのを待っているらしい。
「もう少し早くくればよかったか」
「だから、早めに集まろうって言ったのに」
 乃梨子にとがめられると、男は、ハリウッド映画の登場人物のように、大げさに肩をすくめてみせた。
 アメリカ勤務が長かったらしく、アメリカ人の流儀が移ってしまったというのだ。
「I町は俺の庭だぜ。大丈夫、並ばないで入れる店ならいくらでも知ってる」
「本当?」
 階段を登り、再び人混みに紛れる。
 ふと、乃梨子の視界の端に、影がよぎった。
 確かに、見慣れたウェーブヘアだった。
 乃梨子は腕をほどき、走り出した。
 枝道から、さらに枝道に入る。
 ウェーブヘアの持ち主は見当たらない。
 どこへ行ったのか。
 男が追いつき、乃梨子の肩をつかんだ。
「リコ、どうした?」
 乃梨子は、無言で首を振ると、男の胸に顔をうずめた。
 まだ、私は、生きていると、心のどこかで思い込んでいるのだ。
 バカな私。
 志摩子さんは、とっくの昔に死んだのに。



Dec.24.2007 0.30p.m.

 今日が十二月二十四日と聞いても、女は驚かなくなった。
 ナイジェリアで冬を過ごし、もう三年だ。
 日本では真冬でも、地球の裏側にあっては真夏だ。
 蒸し暑い。
 日陰にいても、汗がにじみ出る。
 この国にも、サンタクロースは来るのだろうか?
 女は、自分の食事の器を見つめた。
 木を削って作った器だ。
 ところどころが欠けている。
 中に入っているのは、水で溶いたキャッサバに唐辛子をかけたものだ。
 三食の内容は、似たり寄ったりだった。
 元々小食だったから、食事の貧しさ自体は気にならない。
「先生、どうしたの」
 女の周囲の子供たちが尋ねる。
 皆、黒人だ。
 女と同じように、地べたに座って食事をしている。
 貧乏のお手本のような、葉っぱで編んだような屋根の、家とも呼べぬような住居が建ち並んでいる。
 村の、半分以上の子の上半身は裸で、よくてぼろぼろのジーンズ、運が悪ければ腰布のみだ。
 大人たちも似たような格好だ。女でさえ半裸の者がいる。
 黒人だらけのこの村にあっては、モンゴロイドの女も、日焼けしているとはいえ、遠目には白人のようだ。
 女は『先生』と呼ばれていた。
 NGOが去り、ひとり残ったこの女が、この村唯一の外国人だった。
 名とは裏腹に、語彙は少なくとも、『先生』よりよっぽど流暢な英語だ。
「なんでもないのよ」
 『先生』たちが食事をしている場所は、この村では集会場に当たる、木造の教室だった。
 日本の学校の、平均的な教室の大きさだが、壁はなく、柱を除けば完全な吹き抜けだ。
 週二回、女が、村中の子供たちに文字の読み書きを教えている。
 どの家庭も貧乏だが、子供だけは多い。
 しかし、教室に来る子供は、教室に収まりきるくらいの数しか来ない。
 最低限の物書きを覚えた子供から、働きに出ているのだ。
 この村は、NGOの介入などの努力により、まだ改善された方だった。
 他の地域では、人身売買が平然と行われているという。
 治安はいいとも悪いとも言えないが、民族紛争は続いていた。遡れば、石油の権益絡みだ。日本も無関係ではない。
 だが、住民たちは、我が子を売り飛ばすなどしたいわけではないのだ。
 自分になにができるのか。
 少しずつ変えていこう。
 『先生』は、左手で、胸の前で十字を切り、主イエスに感謝の祈りを捧げた。

 右腕は、肩のつけ根のあたりからなくなっていた。
 一般には知られていないことだが、2004年から2006年にかけて活動したナイジェリア・デルタ人民義勇軍には、元タリバーンの兵士が少数ながら参加していた。
 ナイジェリア北部で破壊活動を行っていたタリバーンの一グループの残党が、流れ流れて南部の人民義勇軍に協力していたらしいのだ。
 元タリバーンのふたり組に捕らえられたことがあった。
 持ち物から日本人だと知られたらしい。
 右手に握っていたロザリオから、クリスチャンであることも判明した。真面目な彼らは、日本人がアクセサリとしてロザリオを所持している可能性など一顧だにしなかったのだ。
 いずれにせよ、女は敬虔なクリスチャンであったから、間違いではなかったのだが。
 隠れ家に連れて行かれた女は、乱暴に椅子に縛りつけられると、アラビア語と英語のちゃんぽんで激しく罵られた。
 だいたいの内容はわかった。
 おまえたち日本人は、アジアの英雄だった。しかしいまはアメリカに媚びへつらい、他の部族の井戸を盗んでいる(ムスリム特有の言いまわしだろう、と女は解釈した。おそらく、石油権益のことだ)。
 異教徒め、とアラブ人たちは言った。『正義』が行われなければならない。『アーダ(女は、法律のことだろう、と推測した)』によれば、盗人は、利き腕を切り落とされる。
 男のひとりが三日月刀を引き抜き、もうひとりが女の右肩を強く縛りつける。
 三日月刀は、よく斬れた。
 ロザリオを持ったままの右腕が、床に転がる。
 自分の物だった、よく見慣れた右腕。
 その時、乱暴にドアが開けられた。
 怖い顔つきをした黒人だ。
 白いTシャツがはちきれんばかりに腹が突き出ているが、背も高く、露出した両腕の筋肉が盛り上がっていたため、肥満という印象は受けなかった。
「なにをしている!」
 アラブ人たちは、アラビア語と英語のちゃんぽんで弁解するが、黒人は容赦なく殴りつけた。
 軍にこの場所が見つかった。隠れ家を爆破するぞ。女は囮として逃がす。
 男の名は、あとで知ることとなる。
 アサリ・ドクボ。
 ナイジェリア・デルタ人民義勇軍のリーダーであった。

 軍の介入と、ドクボの戦略的判断とが同時に起きなければ、あの時死んでいた。
 自分は、右腕を切り落とされただけで済んだことを、むしろ感謝しなければならない。
 存在しない右手で十字を切ろうとする度に、そのことを再確認させられる。
 主よ。
 願わくば、この子らにも祝福を。
「無理だよ」
 教室に迷い込んできた痩せ犬が言う。
「こいつらの三分の一が餓死する。三分の一が民族紛争に巻き込まれて殺される。残りは、日本人の日銭を一年かけて稼ぎ出すような生活さ」
 痩せ犬が、けたたましく笑った。
 女は両耳をふさいだ。
 まわりの子供たちが、心配そうに、『先生』のことを見守っていた。



Dec.24.2007 0.50p.m.

 由乃とちさとは、こたつに入っていた。
 それぞれの手には、ニンテンドーDSが収まっている。
 プレイしているのは、『マリオカートDS』だ。
 相変わらず、由乃はヨッシー、ちさとはワリオを使っていた。
「黄薔薇だからワリオなのよ」
「そのネタ、何年引っ張るつもりよ」
 つけっぱなしのテレビでは、みのもんたがなにやらしゃべっている。
「一年も終わりだね」
「そうだねー」
「クリスマスイヴだね」
「そうだね」
 ここ数年、クリスマスイヴには由乃の家に集まり、だらだら過ごすのが恒例となっていた。
 昨年まで令もいたのだが、リリアン女学園の体育教師となった今年は、山百合会のクリスマスイヴのパーティに顔を出すらしい。
 振替休日だというのに集まり、パーティだけはしっかりやる。何年経とうと、リリアン生徒は、いまも昔も変わらないらしい。
 大学を卒業し、祐巳ともすっかり疎遠になってしまった。
 会うのは、新年恒例の小笠原家でのパーティくらいだ。
 祐巳に対して、強い好意を抱いていた。
 祐巳の笑顔が見たかった。
 恋だ、と当時は思っていた。
 だが、あの頃、同年代の友人は、祐巳と志摩子くらいしかいなかったのだ。
 錯覚だったのだろう、と、いまにしてみれば思う。
「図書館どう?」
 と、ちさとが尋ねた。
 由乃は、図書館で司書をしていた。
 司書といっても、派遣社員だ。安定した職業とは言えないし、給料も安い。
「司書って、サービス業なのね。知らなかった。でも楽しいよ」
 由乃が熱中しているのは、隔週特定の曜日に実施される読み聞かせだ。
「相手は子供だから、つまらないと、すぐ飽きちゃうのよ。だからいろいろ工夫するの」
「刺激がないと飽きちゃうものね」
「そうそう」
「だから、ほーら羽根こうら」
 ちさとのワリオが羽根の生えたこうらを投げると、コース場を飛び、一位をひた走っていた由乃のヨッシーに激突した。
 ゴールまで、あと数メートルの位置である。
「ギャーッ!」
「まだまだね」
 気絶しているヨッシーの横を、ちさとのワリオや、コンピュータの操るカートたちがすいすいと抜けていった。
「あーあーあーあー、コンピュータが勝っちゃうじゃない! DS版のコンピュータ強いのに!」
「由乃に勝たれるくらいならマシよー」
 よろよろとゴールインし、ふと顔を上げると、テレビには三船敏郎の顔が大写しになっていた。
「十年前の今日は、三船敏郎の命日なんですよね」
 みのもんたの説明に、ふたりとも、特に由乃が驚いた。
「嘘!? 十年前!」
 三船敏郎といえば、時代劇の大御所と言える俳優である。死んでいたことくらいは知っていたが、
「十年前のイヴって、なにがあったっけ」
「えーと」
 先に思いついたのは、ちさとだ。
「『いばらの森』だ!」
 宮廷社から出た少女小説『いばらの森』の作者が、佐藤聖ではないかと噂になり、学校全体を巻き込んだ事件である。
 結局、聖とは別人であった。
 小説を書くなんてできない、読む専門だ──苦笑混じりにコメントしていたのを、由乃はなぜか思い出す。
「……こほん」
 由乃は、わざとらしく咳払いすると、目をつむった。
「ではまず、三船敏郎に黙祷」
「黙祷っ!」
 ちさとも釣られて目をつむる。
「黙祷やめ!」
「早すぎ!」



Dec.24.2007 4.00p.m.

 振替休日だからだろうか。
 蓉子は早めに仕事を切り上げられた。
 毎年なら、このまま祥子の家に向かうところだが、今日は違う。
 我が家に、聖がいるのだ。
 自分の家に、誰かが待っているというのは、考えるだけで楽しいものだ。
 M駅前のファストフード店で、予約していた『クリスマスパック』を受け取り、さらにケーキ店でケーキを買った。
 わくわくする。
 聖の誕生日を、我が家で迎えられるのだ。
 なんであんなろくでなしのために、わくわくするのだろうか。



Dec.24.2007 4.10p.m.

 聖は、空腹を感じ、仰向けに寝転がった。
 気がつくと、さっきから一行も進んでいない。
「くあー、疲れた」
 大学院の修士課程を修了後、博士課程を一年の途中で断念した聖は、しばらく無職のまま本を読んでいた。
 そんな折、無職だということを聞きつけたのか、大学時代の知人が、聖に仕事を依頼した。
 知り合いが、ゲームを作っているのだが、人手が足りない。女性向けケータイアプリにあるゲームのシナリオライターを募集しているのだ。文学部にいたのだから、文章くらい書けるだろう。
 聖は引き受けた。
 自分に物語など書けるとは思わなかったが、他にやることもなかった。
 主人公もヒロインも決まっている。
 両方とも男だ。
 男同士の恋愛物語を好きな読者がいるらしい。
 聖は、シナリオの打ち合わせの時、監督に当たる上司の女に言ったことがある。
「私、男なんて全然わからないんだけど」
 監督は苦笑いした。
「どうせ、読者はわかりゃしないわよ」
 読者が要求しているものは、完成された物語ではなかった。
 日々量産され、ダウンロードされ、通勤時間などに消費されていく物語。
 読者が、翌日にはその内容を忘れ去っているような物語だ。
 聖の書いた物語の、ほとんどが悲恋だった。
 当初、監督は難色を示したが、『せつない』だとか『リアリズムがある』だとか評され、それなりの読者を獲得したことがわかると、今度はそういったものばかり書かせるようになった。
 それら物語のすべてが、多かれ少なかれ自身の経験の投影だった。
 監督やその他スタッフと衝突することもあったが、必ず締め切りを守ったため、重宝された。
「この業界は」
 と、打ち上げの際、絵描きに言われたことがある。
「たいした話を書けないくせに、勝手にプレッシャーを感じて、とんずらする人間が多いの。だから、聖さんみたいな人に仕事がまわっていくのよ」
「私だって、『たいした話』を書けないわ」
「書ける奴なんて、いまごろ直木賞作家だかなんだかになってるわよ。会社はね、それなりのダウンロード数を稼げる『弾丸』が欲しいの」
「さしずめ私は『鉄砲玉』だ。『仁義なき戦い』みたいね」
 読む方は読み捨てていようと、聖にとっては真剣勝負だった。
 書けない、という状況も、当然に起こり得る。
 締め切りは今週28日。
 今日を入れて、あと五日弱だ。
 残りは、原稿用紙換算で五十枚あまりだから、聖には無理な量ではないはずだった。
 ──今回こそは無理かな。
「くそっ」
 聖は三十分で適当に身支度を整えると、散歩に出た。
 煮詰まったら気分転換。
 以前は、酒を飲んで気分を変えた。
 いまは断っている。
 一ヶ月の断酒を、蓉子と約束したのだ。
 音楽も聞けない。
 悲しい音楽は、酒と直結するからだ。
 気分転換には、散歩が一番だ。



Dec.24.2007 4.30p.m.

「ただいまー」
 明るい声を張り上げながら、鍵を開け、玄関から中に入る。
「聖?」
 聖はいなかった。
 風呂場にも、トイレにも。
 蓉子は、買ってきた食料をこたつの上に置いた。
 『クリスマスパック』はフライドチキンだから、冷めるとおいしくないし、生のケーキは二時間で食べろとわざわざ注意書きがある。
 携帯に電話しようと、自分の携帯からかける。
 しばらくすると。
 ヴヴヴヴヴヴヴヴ……。
 こたつの中から、携帯の振動音が聞こえてきた。
 手を突っ込むと、聖の携帯が見つかる。
 こたつのぬくもりがまだ残っていた。
「まだ遠くには行ってない、か」
 二時間待てばいいか。すぐに帰ってくるだろう。
 そう考えた時、ドアホンが鳴った。
「はーい」
「私よ」
 ドアホン越しの、くぐもった、女の声。
 誰だろうか。
「……『ワタシ』さんという知り合いはおりません」
 くすくすという笑い声が聞こえてくる。
「山辺と申します」
 玄関を開けると、江利子がそこにいた。
「どうしたの!?」
「寄ってみたのよ。いないかなーって思ったら、いたから」
「どうぞ、上がって」
 キッチンのある廊下を抜け、リビングに入る。
 この親友を招いたのは、実に何年ぶりだろうか。
 江利子は、眉をひそめた。
 ソファーとこたつが同じ部屋にあるのだ。
 ソファーに腰かけながら、こたつに入るとしたら、せいぜい足先だけだろう。
「ああ、えっと……友だちが持ち込んだの、勝手に」
 『聖が住み込んでいる』などと言いたくなくて、言葉を濁してしまう。友だちには違いない。
「へー、『友だち』ね」
 江利子は強調し、にしし、と笑う。いやらしい笑い方だ。
「……主婦になったのねー」
「なによ、その言い方」
 紅茶を淹れ、ふたりともこたつに入り、向かい合う。
 こたつの上には、『クリスマスパック』とケーキの箱がある。
「……チキン、食べる?」
「これ? 誰かと食べるんじゃないの?」
「えーと……友だちが、どっかいってて」
 なにを察したのか、悪いわよ、と江利子は首を振るが、ショートケーキだけでもと皿に載せて出す。
「で? どうしたの?」
「リリアンに寄ってきたのよ」
「クリスマスイヴの?」
 毎年、山百合会では、クリスマスイヴのパーティをやるのだ。例え、休日だとしても。
「そうそう。令の様子見も兼ねてね。私たちの時と同じだったわ」
「わっかつなげて飾りつけ?」
「あれはさすがに残ってないみたい」
「誰か短冊つけてなかったっけ?」
「あれ誰だったんだろうね」
「聖じゃない?」
 かちゃん。
 蓉子の体がこわばり、ティーカップが皿とぶつかる。
「もしかして、つき合ってる?」
「や、やーね、そんなこと」
 蓉子は、すっくと立ち上がると、言った。
「ト、トイレ」
 バスルームに駆け込み、用も足さずに水を流す。
 なにやってんだ、私は。
 ぼろぼろだ。
 聖は、どこにいるんだ。
 早く帰って来て。
 いや、帰ってくるな。
 まだ、江利子がいるのだから。



Dec.24.2007 4.40p.m.

 スカートのブリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻えらないように、
ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。
 もちろん、遅刻ギリギリで走り去るなどといった、はしたない生徒など存在していようはずもない。
 では、それら模範となるはずのシスターが走る状況など、何事なのか。
 職員室から出た矢先に、シスターのひとりが、目の前をばたばたと横切っていったのだ。
「師が走ると書いて『師走』だけれど」
 何気なくつぶやいた時、シスターが立ち止まり、令に向かってきた。
 思わず半歩下がる。
 教師になったいまでも、生徒の頃に植えつけられた悲しき習性というべきか、令はシスターが苦手である。ましてや、自分より三十歳も上のシスターが相手だ。
 『黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)』を勤めたこともある。優等生だった方だと自認しているけれど、それでも何度かシスターのお説教の世話になった。
「逃げなくてよろしい、支倉先生」
「は、はい」
「校長室までご同行願います」
 そら、きたぞ。
 ご丁寧なことに、刑事ドラマの常套句つきだ。
 クリスマスまで(クリスマスだからこそ?)お説教なのか。
「あのう、山百合会のパーティに出ると約束しているのですが……午後五時からなのですけど」
「怖がらなくてよろしい」
 シスターは、しわだらけの手で、むんずと令の肩をつかんだ。
「いい報せかもしれません」
 もう片方の手に握られているのは、エアメールだ。
 その、差出人は……。
「まさか」
 本当だとしたら、クリスマスパーティどころではない。



Dec.24.2007 5.20p.m.

 恋愛映画を観て、喫茶店で他愛ないおしゃべりをして、I町をぶらつく。
 五時過ぎだというのに、もうすっかり暗い。
 乃梨子は、恋人の顔を見上げた。
 ――この人となら、一生を共に過ごせるのだろうか。

 かつて乃梨子は、自分の姉である志摩子と、一生共に過ごそうと、本気で考えていた。
 志摩子は、いつも孤独だった。
 乃梨子がいなければ、『怖い夢』にうなされる、弱い存在だった。
 常に乃梨子のことを必要としていた。
 だが、志摩子は、自分を連れずにナイジェリアへと赴き、NGO活動に従事し、紛争に巻き込まれ、死んだのだ。

 長身だ。
 自分より、頭ひとつ分高い。
 隣にいる人は、乃梨子がいなくても生きていける。
 強い人だ。
 少なくとも、弱くはない。
 そういう意味で、乃梨子と似ていた。だから惹かれ合ったのだろうと乃梨子は思う。
 結婚相手が欲しければ、乃梨子以外の誰かを容易に探すことができる。
 ――でも、この人は、私を選んでくれた。
「どうした?」
 低く、優しい声。
「私ね……」
 言いかけた時、携帯が鳴り出した。

  マリアさまのこころそれはあおぞら
  わたしたちをつつむひろいあおぞら

 山百合会専用の着信音だ。
 瞳子や祐巳、由乃からではなく、なんと、令からだった。
「もしもし」
「乃梨子ちゃん!?」
 丸六年聞いていなかったアルト声だ。
 ひどくうわずっている。
「どうしました、令さま」
 『さま』づけに、隣で恋人が珍しそうな顔をしている。
「し、しまっ……」
「『シマウマ』?」
「志摩子!」
「……ああ、どうしました」
「生きてた!」
「はあ!?」



Dec.24.2007 5.30p.m.

 K駅では、クリスマスソングが流れている。
「そうか、スペシャ(スペースシャワーTV)のロゴも、サンタの帽子かぶってたな」
 いつもなら、一時間も散歩すれば、シナリオ上の問題を解決する妙案が浮かんだ。
 だが、今日ばかりは、いくら歩いても解決しない。
 とにかく歩いた。
 見知らぬ路地を選び、歩く。
 異化作用を起こせ、とは、大江健三郎の言葉だったろうか。
 K駅南口は、路地裏に出ると、迷路のようだった。
 三十分も歩くと、現在位置がわからなくなる。
 妙案など浮かばない。
 そろそろ、喫茶店でも入ろうか、と考える。冷えてきたのだ。
 次の辻を曲がると、教会の前を通りかかった。
 『カトリックK町教会』とあった。
 看板によれば、クリスマスイヴのミサをやるらしい。
 この私が教会か。
 これぞ異化ではないだろうか。
 聖は、玄関を開け、礼拝堂に出た。
 かなりの人が集まっている。
 中央では、神父とシスターが、なにやら相談をしている。
 ふたりとも、かなりの年配だ。
「あのう……飛び入り構いませんか」
「はい、いいですよ。空いている席にお座りください」
 と、神父が答えた。
 聖は一礼し、手近な椅子に座った。
 神父とシスターは、まだ相談していた。
 そのうちに、玄関から、誰か現れた。
「すみません、遅れました」
 声から、女だとわかる。
 ふたりは見るからにほっとして、その女に呼びかけた。
「いいえ、まだ時間に余裕はありますよ、シスター久保」
 聖は、思わず振り向いた。
 シスター久保は、神父となにやら話し込んでいる。
 聖には気づいていないようだった。
 十年経っても、見間違えようもない。
 シスター久保は、久保栞だった。
 こんなところに、いたくない。
 聖は腰を浮かし、身をかがめたまま、出口に向かって飛び出した。



Dec.24.2007 5.40p.m.

 電話を切り、ため息をつく。
 恋人が、なにがあったんだ、と心配そうに尋ねた。
「あのね」
 乃梨子は、恋人の名前をそっと呼んだ。
「私、無理だ、あなたとつき合うの」
「えっ」
 恋人は絶句した。
「ごめん」
 乃梨子は、駅に向かって駆け出した。



Dec.24.2007 6.10p.m.

 涙があふれ出る。
 聖はK町を走った。
 なぜ、栞と会わなかったのか。
 いま、栞に会えば、この十年が否定されてしまう。
 祐巳と出会ったこと。
 景とイタリア旅行に行ったこと。
 蓉子に支えられていること。
 みっともなく泣きながら、めちゃくちゃに走った。
 ちくしょう。
 ちくしょう。
 もういやだ。

 息を切らし、蓉子の部屋に転がり込んだ。
 聖は、靴をやっとのことで脱ぐと、キッチンのある廊下にそのまま倒れた。
「ちょっと聖、なにやってんの。待ってたのよ」
 蓉子は、聖を助け起こした。
「『待ってた』?」
「驚いた」
 蓉子とは別の声がする。
「本当に聖がいたなんてね」
 江利子が、こたつの中から、ごきげんよう、と挨拶した。
「なにを待ってたの、あんたら」
「聞いて驚かないでよ」
 と、江利子がにやりと笑った。
「志摩子が、生きてるって」
 聖は、混乱するしかなかった。



Dec.24.2007 9.00p.m.

 紅薔薇ファミリーの蓉子、祥子、祐巳、瞳子。
 黄薔薇ファミリーの江利子、令、由乃。
 白薔薇ファミリーの聖、乃梨子。
 山百合会のメンバーではないが、ちさと。

 以上の面々が、リリアン女学園の職員室で、一堂に介した。
 皆、志摩子と面識がある者ばかりである。
 各々が、各々のやり方で、クリスマスイヴを満喫していたのだ。
 それが、一通のエアメールによってブチ壊された。
 もちろん、そのことを、誰もいやがってはいない。

 祐巳には、それがうれしかった。
 みんな、昔となにひとつ変わっていないんだ、って。




  私は元気です。
  みんなに会いたい。

2004.9.24 しまこ




 手紙の文面は、それだけだった。
 幼稚園児が書いたような、よれよれの書体だった。
「宛先は、『リリアン女学園』、とだけありました」
 令がエアメールの封筒を示してみせる。
「『ジャパン』とか『トーキョー』は?」
 聖は皮肉っぽく尋ねる。
「もちろん、ありました。差出は、ナイジェリアからです」
「ナイジェリア、ねえ……」
「ここから重要なのですが、日付は、二〇〇四年の九月になっています。志摩子の葬儀のあとです」
「三年かけて、いまさら着いた? さっすがアフリカ。それとも、幽霊が出したのかね」
「真面目に聞きなさい、聖」
 蓉子にたしなめられ、はあい、と聖が答える。
 いつもながらこの人は、いったいどういう神経をしているのだろうか、と祐巳は改めて考えてしまう。
 しかし、謎は謎だ。
 日本には、右腕だけが送りつけられてきたのだ。
 DNA鑑定で、志摩子の物だと判明している。
 テロの大爆発に巻き込まれ、右腕だけが奇跡的に焼け残った――ナイジェリア政府はそう説明したそうだ。
 志摩子は、本当に生きているのだろうか。
「番地がわからないから、リリアンを指定したのではないかしら」
 と、祥子が言った。
「これ、きっと左手で書いてます。左側によれてますから」
 ちさとは文面とにらめっこしている。
 各人が、思い思いの推理を始めるが、エアメール一通からたいした情報を手に入れられるはずもない。
 とうとう、乃梨子は言った。
「生きてる可能性がある、ってことですよね」
 全員が、乃梨子を見つめた。
「なら、私のやることは、決まってます」
 その瞳には、揺るがぬ決意が宿っていた。



Jun.17.2008 1.00p.m.

 ナイジェリアの七月は、十二月に較べ涼しい程度のもので、暑いのには変わりない。
 季節による気候の変化がないため、時間を忘れそうになる。
 毎日が、暑い。
 同じことの繰り返しだ。
 自分がなにをやっているのか、わからなくなる。
 子供たちに読み書きを教えて、なにになるというのだろう。
 子供たちの大半が、読み書きなど必要のない職に就くというのに。
 一日の授業が終わり、教材を片づける。
 同じ教材を、何度も何度も使っている。湿気のせいもあり、もうぼろぼろだ。
 元タリバーンに奪われたのは、右腕だけではない。日本円もだった。紙一枚たりとも無駄にはできなかった。
「先生」
 村の子供が、ぱたぱたと駆けてくる。
「どうしたの」
「日本から、お客さんだって」
「『客』……?」
「女の人」
 子供の指さした方向を見る。
「志摩子さん」
 なつかしい声。
 なつかしい呼び名。
「どうして」
 乃梨子が駆け寄り、ぎゅっと抱き締める。
 志摩子も、残った左腕で、乃梨子の背中を撫でた。
「ずいぶん日焼けしたんだね」
「どうして来てしまったの」
「私は、志摩子さんと一緒にいたいんだ」
 村人たちが、不思議そうに寄ってくる。
「先生の大事な人なんだね」
「そうよ」
 と、志摩子は答えた。
「私の、一番大事な人よ」
「そうだ、志摩子さん」
 乃梨子は、いったん体を離すと、元気よく言った。
「メリー・クリスマス!」





Dec.25.2007



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