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Milk It



1.

 梅雨も明けた、暑い夏の日のことだった。
 お互いの誤解により仲違いしていた紅薔薇の姉妹だったが、周囲の助けもあって和解。いまや、仲違いの前よりも和気藹々としていた。
 夏休みに向けての雑務処理も、他愛ないおしゃべりを交えながら行っていた。
 以前の祥子なら、仕事中の雑談など決して許さなかったろう。特に、自分の妹(プティ・スール)である祐巳のおしゃべりなら、なおさらだ。
 仕事は、厳格に行わなければならない。それは、祥子が父から学んだ鉄則であり、父との数少ない絆だった。
 もちろん、雑談に集中し、手がおろそかになろうものなら、以前通りの一喝が飛ぶのだろう。
 祐巳もわかっているから、手は止めない。
 それでも祐巳はしゃべり続けた。ここ数日、祥子と会話できなかった鬱憤を晴らすように。
 他の四人も、そんなふたりの様子をほほえましく見守っている。
 メンバーが総出なのは、ここ数日祥子が休んでいたために仕事が貯まっていたこともあるが、仲直りしたふたりの様子を確認しておきたかったこともあるのだろう。
「……そうそう、お姉さま。今日、とてもおもしろいことがあったんです」
「なあに?」
 祥子は、やわらかな声で聞き返した。
「授業中、大きなげっぷを聞こえたんです。それも四時間目なのに」
「まあ」
 祥子は目を丸くして驚いた。他の三人も、驚いたり笑ったりとさまざまな反応を見せる。
 首をかしげたのは乃梨子だった。
「げっぷ、ですか? 誰の?」
「うん、げっぷ。わからないけど、すごく大きかったの」
 大きなげっぷ、と乃梨子はつぶやいた。
 確かに、その場にいたらおもしろい出来事だ。
 だが、祥子の驚きようが気になった。
 あまりに怪訝そうにしていたのか、姉(グラン・スール)の志摩子が教えてくれた。
「げっぷが出るような飲み物といえば?」
「サイダーとか……ビールですか?」
 言ってから、女子高生がビールを飲むわけがないだろう、と心の中で突っ込む。こんな連想をしてしまうのも、一緒に住んでいる叔母が、「仕事のあとの一杯」のあと、必ず豪快にげっぷをするからだ。
「リリアンではね、炭酸飲料を売ってないの」
「え、そうだったんですか?」
 言われてみれば、と乃梨子は思い返した。『缶入りしるこ』なんてけったいなものを売っているにも関わらず、炭酸飲料を見たことがない。
「いつもウーロン茶だから気づきませんでした」
「だから、四時間目に、そんな大きなげっぷが聞こえるというのはおかしいわけ」
 リリアンの生徒は、げっぷなんてはしたないことをしないのよ──志摩子のあとを引き取るように、祥子が締めくくった。
 なんとまあ、リリアン的だろう。
 乃梨子は苦笑しながらも、心の中に引っかかるものを感じた。
「なら、原因はなんです?」
「げっぷした人に聞いてみなきゃ、わからないな」
 祐巳が、祥子の目を気にしながら答えた。そろそろ仕事に集中したい、ということなのだろう。
 それなら、と乃梨子は矛先を変えた。
「由乃さまは聞かれたんですか?」
「えっ?」
 それまで話の輪の外にいたせいか、由乃はひどく驚いてみせた。
「だって、同じクラスでしょう」
「……あ、ああ、そうね。聞いたわよ、聞いた」
 由乃の目が泳いでいた。
 令をうかがう。
 我、関せずとばかりに、テーブルの資料に向かっている。
 すべてを理解した乃梨子は話題を打ち切り、仕事を続けた。
 それからしばらくして、なかなか落ちようとしなかった夏の太陽が、ようやく西の空へと隠れ始めると、皆が帰り支度を始めた。
 乃梨子は期を見計らって、黄薔薇姉妹を捕まえた。
「由乃さま」
「なに?」
「げっぷ」
「……が、どうしたの」
 またも、目が泳いだ。
 令は、頭痛を抑えるかのように後頭部をさすった。
「由乃、バレてるよ。乃梨子ちゃんは鋭いんだから」
「令ちゃんは黙ってて!」
 もう、その態度だけで、自白してるも同然だ。
「外には漏らしません。私は、真実が知りたいだけです」
「『真実』?」
「はい。なぜ……由乃さまが、げっぷしたか、ということを」
 由乃は、西の空、沈み行く夕陽を見つめた。
 夕暮れで真っ赤に染まった由乃の、憂いを秘めた横顔は、一枚の絵画のようだった。
 憂いの原因が『げっぷ』でなければ、まだ話もわかるのだが。


2.

 アメリカの農家を不意に襲うハリケーンのように、その衝動はやってくる。
 『衝動』に襲われた者は、いてもたってもいられなくなる。
 目の前の、やらねばならぬことをすべて投げ打ってでも、『衝動』に従わなければならないのだ。
 由乃が『衝動』に襲われたのは、梅雨も明けた、ある暑い夏の日のことだった。
 二時間目、数学の授業。
 エアコンが効いているから、暑いわけではない。
 むしろ寒い。
 由乃は冷房の類が得意ではなかったが、暑いのはもっと苦手だった。わがままは言うまい。
 だが、『衝動』は、暑いだの寒いだのといったこととは関係なしにやってくるのである。
「……コーラ飲みてえ」
 つい、口からついて出た。
「え?」
 前の席の子が、由乃のことを心配そうに振り向く。
「どうしたの? 気分でも悪いの?」
「え、ううん、なんでもないの」
 あわてて笑顔を取り繕うと、前の席の子は、名残惜しげに自分の机へと視線を戻した。
 由乃は、今度は注意深く、口の中でだけつぶやいた。
 コーラ飲みたい。
 ペプシではダメだ。
 コカコーラ。
 それも赤いラベルの、カロリーたっぷりのものだ。
 常用しているわけではない。
 むしろコカコーラなんて、一年に一度飲むかどうかだ。
 しかし、『衝動』は、唐突にやってくるのだ。
 ハリケーンのように、すべてを吹き飛ばしてしまう。
 ごうごうと由乃の心の中で、コカコーラ・ハリケーンが吹き荒れていた。
 我慢しなければ。
 我慢しなければ。
 授業終了まで、残り十五分。
 長い。
 とにかく長い。
 だが、授業が終わったところで、由乃は無力だった。
 売店でも、自動販売機でも、コカコーラは売ってないのだから。
 コーラ!
 コーラ飲みたい!
 コーラ、コーラ、コカコーラ!
 気づいたら休み時間が終わっていた。
 目の前がぐるぐるぐるぐるまわる。
 拳をぎゅっと握り、歯を噛みしめた。
 しかし、ハリケーンは収まらない。
 心の中のハリケーンが、コーラの国へと連れて行ってくれないものか? ルビーの靴はコカコーラの色。
「本当に大丈夫?」
 前の席の子だけでなく、三、四人が由乃のまわりに集まり出した。
 中には祐巳さんまでいる。
「由乃さん、由乃さん。しっかりして。保健室行こう」
「大丈夫よ……」
「大丈夫って顔じゃないよ」
 祐巳は、由乃の腕を持ち上げ、由乃の脇に自分の首を通した。
 よいしょ、と持ち上げられる。
 それから、どうやって保健室まで連れて行かれたのかはわからない。
 次に気づいた時には、ベッドで寝ていた。
 養護教諭はいないらしい。
「授業あるから、行くね」
 祐巳の背中が去っていく。
 福沢祐巳。
 紅薔薇のつぼみ(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)。
 薔薇の色は赤。
 コカコーラの色だ。
 コーラ、コーラ、コーラ、飲みたい。
「由乃、由乃」
 心配そうな声が聞こえる。
 なじみの声。
 令が、上から覗き込んでいた。
「令ちゃん……」
「祐巳ちゃんから聞いた。三時間目は休んだよ」
 そうか、もう三時間目なのか。
 令がわざわざ休んだことは、別に不思議ではなかった。前からこういうことはちょくちょくあったからだ。
「また胸?」
「ううん、違うの」
「どうしたの? 今日は暑いから」
「コーラ飲みたい」
 沈黙。
 目が細まる。
 爬虫類が獲物を狙う目に似てる、と由乃は思った。
「もしかして、由乃……『買って来い』って?」
「お願い」
「我慢して」
 冷たい声。
 よく冷えたコーラより冷たい声だ。
 その瞬間、由乃は爆発した。
「飲みたいの! 飲みたいの! コーラ! コカコーラ! 黒いコーラ! 赤いラベルのコーラ! 飲みたい! 飲みたい! のーみーたーいー!」
「わかった、わかった!」
 令はあわてて由乃の口をふさいだ。
「わかったから、静かにして! 買ってくるよ……」
「令ちゃん大好き!」
 あきらめ顔で保健室を出ようとする令の背中に、由乃はつけ加えた。
「赤いコーラよ! 間違えないでね!」
「わかったよ」


3.

「……で、令さまに買いに行かせた、と」
「それが、令ちゃんったらひどいのよ!」
 由乃は、頬をふくらませ、ぷりぷりと怒ってみせた。
「買ってきたのが、なんとこれ!」
 後生大事に持っていたのか、カバンの中から空き缶を取り出してみせる。
 『JOLT』という文字が稲妻に貫かれているデザインだ。
「ジョルトコーラ……」
 乃梨子は呆然とつぶやいた。
 ジョルトコーラが日本で発売され始めたのは一九九〇年代前半、乃梨子たちが小学生の頃だった。ビートたけしのCMで大々的に売り出していたのを漠然と覚えている。
 だが……
「まっずいの!」
 と、由乃は顔をしかめてみせる。
 通常のコーラと較べて、ジョルトコーラはカフェインが大量に入っており、その味も甘味と苦味が入れ替わる独特なものだった。アメリカと違い、日本ではまったくといっていいほど人気が出なかった。由乃のお気にも召さなかったらしい。
 確かにジョルトコーラの缶は、赤い。だが、いまとなっては店頭で見かけることもないジョルトコーラを買ってくるとは。
「『赤いコーラ』って言っただろ」
「赤いコーラっていったらノーマルなコカコーラでしょ!」
 由乃の抗議をよそに、令はうつむき、口を押さえていた。肩がわずかに震えている。泣いているのか? いや、笑いをこらえているのだ。
 つまり、無茶な要求に耐えかねた令は、わざわざジョルトコーラを探してきたのだ。ささやかながらも手の込んだいやがらせだった。
「令ちゃんのバカ! バカバカバカーッ!」
 いつもなら傷つくだろう言葉も、いまの令には心地いいらしい。令は余計に笑いをこらえるだけだった。
 しかし、よくジョルトコーラなど見つけられたものだ。
「多分、江利子さま──先代黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)の入れ知恵ね」
 振り返ると、そこには志摩子が立っていた。
 どうやら事情は把握しているらしい。
「子供の頃から、由乃さんの『コーラ中毒』には困らされていたようだから、仕返しの方法を考えていたに違いないわ。先代黄薔薇さまは変わった物がお好きだったから、ジョルトコーラを売っている店くらいご存じだったでしょう」
「はあ……」
 いまの乃梨子には、志摩子の言葉がろくに耳に入っていなかった。
 話を聞き始めてからというもの、乃梨子の中で、ひとつの『衝動』が育ち始めていた。
 『衝動』は、ジョルトコーラの缶を見たあたりで、明確な『欲求』へと成長を遂げていた。
 校門を出たところで、乃梨子は打ち明けた。
「志摩子さん」
「なに?」
「これからマクドナルド行きませんか」
 乃梨子は、てりやきマックバーガーを食べたくて仕方なかったのだ。



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